2013年6月30日日曜日

憎悪の袋小路「灼熱の魂」その1


【データ】
灼熱の魂
原題:Incendies
公開:2010年
制作:カナダ・フランス
監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
主演:ルブナ・アザバル
時間:131分

【原題】
「Incendies」とは、フランス語で炎、火事を意味しているそうだ。カナダ在住の劇作家ワジディ・ムアワッドの「浜辺」、「火事」、「森」、「空」と続く「約束の地」四部作という舞台作品の、第2作目を映画化したもの。不満が残る気がするのは、四部作の部分だからかもしれない。

【あらすじ】
カナダ・ケベック州に住む双子の姉弟(ジャンヌとシモン)は、亡くなった母親(ナワル)の遺言で父親と兄の存在を知る。そして母親の故郷であり、自分たちの生まれた地でもある中東の国に、初めて足を踏み入れる。



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【冒頭シーン】
ナワルは、娘のジャンヌに連れられて市民プールに来ている。平凡だが、平和な夏の一コマだ。しかしナワルは、そこで信じ難いものを目にしてしまう。その意味を理解した彼女は、まるで呆けたように表情を失う。


【感想】
徐々に明らかになる母ナワルの過去、そして姉弟の出生の秘密。ミステリーのような展開で引き込まれ、最後まで飽きさせる事が無い。そうした意味では、とてもよく出来た映画だ。

しかし、幾つかのレビューで言われているような、「憎悪の連鎖を断ち切る物語」とは、とても思えなかった。ナワルの託した二通の手紙も、憎悪の連鎖を断つ道を示しているとは思えない。むしろ憎悪の連鎖が辿り着いた、ひとつの袋小路ではないのかと感じた。



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以下は、ミステリー部分のネタばらしを含むので、この映画をまだ観ていない人は気を付けて下さい。
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母ナワルの遺言に従って父と兄を探すジャンヌとシモンは、その衝撃的な答えを知る。二通の手紙は、同じ人物へのものだった。1 + 1=1、つまり父と兄が同一人物というのは、憎悪の対象が愛の対象と同一だった事をも示している。

憎悪の対象を追い求めれば、それは愛の対象だった。愛の対象を追い求めれば、それは憎悪の対象だった。まるでメビウスの輪のようだ。憎むに憎めず、愛するに愛せず、あざ笑うことも、勝ち誇ることも出来ない。しかし、だからといって、憎悪を消す事も愛を忘れる事も出来ない。まさに袋小路ではないだろうか。


あの夏の市民プールで、ナワルはその事に気付いた。表情を失うほどの衝撃を受けるのも当然だ。その冬に彼女は亡くなり、遺言と二通の手紙を遺した。物語としては必要な展開だろう。しかし現実で考えたら、ナワルの遺言も手紙も、憎悪の連鎖を断ち切る行為とは正反対に思える。

少なくともジャンヌとシモンは、苦悩を抱え込んだ。それが憎悪に変わらないと、誰が言えるのか?  ナワルの遺した二通の手紙が、三人の子供たちと一人の父親の憎悪を浄化し、消しさるだろうか? その答えは無く、ただ憎悪の袋小路を見せ付けて終わってしまったという印象だ。

もっとも先に書いたように、原作の戯曲は四部作ということなので、物語には先があるのかも知れない。


ちなみに、この映画では火と水が印象的なシーンに使われている。その火と水については、以下のブログが興味深い解釈をされている。ただ、やはりそれでも姉弟の苦悩は大きく、重く残るだろうと思う。

[映画]灼熱の魂(ネタバレ)/笑わない女が歌うのは…
http://d.hatena.ne.jp/mina821/20120203/1328254874



その2へ










2013年6月21日金曜日

一生モノの映画「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」その3

前エントリーから。感想の続き。


・神が存在する物語とは、何を意味するのだろう?
二つの物語を語り終えた後の会話を、もう一度みてみる。

パイ:「どちらの物語でも、沈没理由は分からない。どちらの物語でも、それを証明出来ない。どちらの物語でも、家族は死ぬ。どちらの物語でも、私は苦しむ。 それで、どっちを選びたい?」

作家:「トラの物語を…そっちが良い物語だ」

パイ:「ありがとう。 それは、神が存在する物語だ」

この会話でパイが言った、神が存在する物語…とは、何を意味しているのだろう? ここにも多くの示唆が含まれているようだ。


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まず、トラの物語はパイが作った話だろうか?  いや、そうでは無いだろう。もし創作なら、二つの物語を語る必要は無い。救助された当初ならまだしも、長い年月が経っている。他者に語るべき物語がどちらなのかのという選択は、自ずと出来ているはずだ。

先のエントリーで、パイは未だにどちら物語を選ぶか決めかねていると書いた。が、より正確には、二つの物語のどちらもパイの記憶となっていて、どちらが、どこまで本当の体験と記憶なのか、本人も判別出来ないのだろう。「どちらの物語でも、それを証明出来ない」のだ。

つまり、どちらを選びたいか、自分で決めるしか無いということだ。それはパイであれ、彼から二つの物語を聞いた人であれ同じだ。そして、どちらの物語を選ぶか決めた瞬間、物語はその人だけの意味を持って完結する。

逆に言えば、二つの物語を語るパイは、まだ選ぶ事が出来ていない。なにしろ彼は当事者であり、「どちらの物語でも、私は苦しむ。」のだから。



では、トラの物語は、いつ生まれたのか?  それは、パイがメキシコの海岸に辿り着いて、意識を失った時だと思う。過酷な現実の舞台だった救命ボートから降りて、かつ、理性や論理性から解放された、その時にいきなり物語は生まれたのだろう。そして、それはもう一つの記憶となった。



そして、パイがトラの物語を、「それは、神が存在する物語だ」と表現したのは何故だろう?  それを知るには、彼が長い漂流の間に何を考え何を思ったのかを想像するしかない。

船が沈んで数日の間に、悲惨な出来事が起きてしまい、彼自身も恐ろしい事をしてしまう。それからの長い長い日々。生きる為に必死で闘いながらも、決して忘れる事の出来ない記憶が彼を責め続けただろう。

同時に彼は、神にも問い続けたのではないか。パイは、幼い頃から宗教に強い興味を持っている子供だった。それで無くとも、大海原を漂う彼の前に、人間の理解や想像を遥かに超越した光景が現れる。

神にすがり、苦悩をぶつけ、何度も何度も問い続けただろう。無論、何処からも神の声は返って来ない。しかし救助され意識を取り戻した時、彼は二つの記憶を持っていた。パイが、トラの物語を神からの返事だと捉えるのは、自然な事だと思う。神が存在したがゆえに生まれた物語、それを神のいる物語と言ったのだろう。

トラのいない物語だけなら、パイの苦しみは耐え難いほどだったかもしれない。果たして家庭を、子供を持つ事が出来ただろうか。トラのいる物語だけなら、彼は嘆きと悲しみを持ち続けるだろうが、自分に問い続けるという業は抱え込まずに済んだかもしれない。しかしそれでは、考える事も失う。

二つの物語が、判別出来ないほど記憶の一部となっているのは、それこそ神の絶妙な配分かもしれない。



他にもたくさん、考えるべき事がある。
なぜトラは最後までボートに居たのか?
二つの物語の違いは何か?
トラの物語が果たす役割は?
…

しかしキリが無いので、取り敢えずここまで。やはり一生モノの映画という評価は、大袈裟では無いと思う。

おしまい。

2013年6月20日木曜日

一生モノの映画「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」その2


【感想】
この映画については、既に多くのブログで書かれている。まず映像の美しさを讃え、そして二つ目の物語を様々に解釈し、その比喩を美しい映像から読み解く。そんな試みを、たくさんの人たちが行っている。

しかし、それでもまだ、この映画には気になるヒントが幾つも残されている。食事で始まり食事で終わることや、名前についてのエピソードの意味など、あれこれと考えだしたらキリが無い。一生モノの映画と名付けた由縁だ。

とりあえずここでは、主人公パイが、なぜ作家に二つの物語を語り、どちらを選ぶか問うたのか?  そして、神のいる物語とは何を意味するのか? この二点を考えてみた。


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・なぜ、二つの物語を語ったのだろう?  そして、問うたのだろう?
いくら親しい人からの紹介とはいえ、初対面の相手だ。しかも、本を書くために話を聞きに来ている。そんな人物に、二つ目の物語まで語るのはリスキーだろう。

トラと漂流した物語だけで、作家は充分に満足して帰ったはずだ。なぜ、そうしなかったのか。そのヒントは、家族は妻と猫と子供二人だと、パイが話した時の会話にある。

「じゃ、ハッピィーエンド?」と、作家が問うと、「それは、あなた次第だ。物語は今、あなたの手にある」そう、パイは答えた。

つまり、まだ結末は確定していないのだ。実はパイ自身が、生還して以来ずっと、そして今も自問と葛藤を続けているのではないだろうか。そして未だに選びきれていない。

だからこそ二つの物語を語り、どちらを選びたいかと他者に問うてみたのだろう。もしかしたら、これまでにも同じ問いを、誰かに投げ掛けて来たのかもしれない。


パイが作家に問うた時の会話は、こんなふうだ。「どちらの物語でも、沈没理由は分からない。どちらの物語でも、それを証明出来ない。どちらの物語でも、家族は死ぬ。どちらの物語でも、私は苦しむ。 それで、どっちを選びたい?」

作家は、ほんの少し間を空けて、「トラの物語を…そっちが良い物語だ」と答える。するとパイは、こう返すのだ。「ありがとう。 それは、神が存在する物語だ」

この「ありがとう」は、何に対する感謝だろう? 未だに、トラと漂流した物語を選び切れない自分に対して、その物語を選んで良いんだと言ってくれたように思えたのかもしれない。もちろん、それで簡単に苦悩が終わるわけでは無いが、少しは重荷を軽くしてくれたのだろう。


その3へ

2013年6月19日水曜日

一生モノの映画「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」その1

この映画は、DVDを買って損の無い作品だ。なぜなら、三つの理由で何度も楽しめるからだ。
まず、圧倒的に美しい映像。この映像だけでも、もう一度観たくなる。さらに、驚くべき第二の物語。その意味を確認するために、もう一度じっくりと観直す事になる。そして最後に、自分自身への問い掛けを行ないながら、また観る事になるだろう。それも、歳を重ねる中で何度も…。



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【データ】
原題:Life of Pi
原作:『パイの物語』ヤン・マーテル
公開:2012年
制作: アメリカ
監督:アン・リー
主演:イルファーン・カーン、タッブー、レイフ・スポール
時間:127分


【原題】
Life of Pi 『パイの物語』というシンプルで、しかも作品の本質を表した原題だ。しかし日本語版では、「トラと漂流した227日」という言葉が追加された。そのせいか、この映画をアドベンチャーやサバイバル物と勘違いしてしまった。それはそれで、ある意味で効果的なのだが、勘違いした印象で観るのを止めた人も居るかもしれない。そうであるなら、とても勿体無い。


【あらすじ】
主人公パイの両親はインドで動物園を経営していたが、新天地を求めて動物と共に一家でカナダに移住することに。しかし、パイの家族と動物たちを乗せた貨物船は、嵐に合って沈没する。ただ一人助かったパイは、ベンガルトラと一緒に漂流する事になる。そのパイが語る、227日の物語。


【冒頭シーン】
パイがキッチンで、菜食主義の料理を作っている。テーブルには、パイの体験談を聞きに来た作家が座っている。手際良く調理しながら、パイという名前の由来、そしてアダ名に関するエピソードを語る。

パイがテーブルに付くと、作家は訪ねて来た経緯を話した。パイは、「何を信じるかは、自分で決めればいい」と言って、その驚くべき体験を語り始める。


【ラストシーン】
すべてを語り終えてたパイは、作家を夕食に誘う。妻は料理が上手いからと言うと、作家は少し驚いた表情をした。結婚しているのが、意外だったようだ。パイは、猫と二人の子供もいると言った。

「じゃ、ハッピィーエンド?」と、作家が問うと、
「それは、あなた次第だ。物語は今、あなたの手にある」そう、パイは答える。

最後の場面は、一度も振り返えること無くジャングルヘ帰って行く、トラの後姿で終わる。


その2へ



2013年6月17日月曜日

深読みしたくなる映画「約束の旅路」その3


この映画ヘの、ちょっと妄想気味の感想をまとめてみる。

監督の狙いは、次のようなものだったのではと思う。

・一つは、エチオピア系ユダヤ人の存在を知らせる
・一つは、エチオピア系ユダヤ人が直面している問題を知らせる
・一つは、救出対象の選別に疑問を呈する

そして、それらすべてを「感動的なヒューマンドラマ」という味付けで覆い、反ユダヤ・反イスラエルという批判を回避する。



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まず、エチオピア系ユダヤ人というものの存在や経緯は、世界の人々によく知られているとは言い難い。映画の題材として取り上げることは、それを広く知らせるのに最も効果の有る方法の一つだ。実際、遥か日本の片隅で、こんな感想を書いている人間までいるのだから、それはかなり上手くいったのだろう。




次の、エチオピア系ユダヤ人がイスラエルで直面する問題については、主人公「シュロモ」が、少年から青年へと成長する様子に合わせて丁寧に描かれている。というより、映画のほとんどの時間が費やされていた。

なぜなら、シュロモが苦しんだ孤独と疎外感、そしてあからさまな差別こそ、イスラエルにおけるエチオピア系ユダヤ人問題の主要部分だからだろう。学校で、宗教の場で、恋愛や結婚・就職・政治で、彼らが今もぶつかり続けている事だからだろう。

ただそれらの問題は、彼を愛してくれる養母と恋人の存在によって救われるシーンが用意されていて、結果としてはソフトな印象に仕上げられている。この養父母はフランス系ユダヤ人で白人、シュロモの恋人になるのもヨーロッパ系の白人ユダヤ人だ。


これはちょっと、都合が良すぎるように思える。もちろん、そういう人たちは居るだろう。でも、そういう人たちが居ない中でもがく、エチオピア系ユダヤ人の方が現実には近いのではないだろうか。しかしそれでは現実的過ぎて、感動的な物語が成り立たない。その意味で必要な記定だったのだろう。

あるいは、この養母は、イスラエルの良心的な部分を象徴しているのかもしれない。肌の色こそ違え、内乱と飢餓に苦しんでいる同じユダヤ人を祖国イスラエルに迎えよう…という建前をそのまま信じ、そうで在らねばならないと突き進む人だ。対して養父は、イスラエルの本音を表しているようだ。祖国を護るには、一人でも多くの兵が必要だ…とシュロモの前で言ってしまったりする。

少年時代のシュロモで印象的だったのは、難民キャンプで一人暮らす母への手紙を代筆して貰う為に、同じエチオピア人の下を訪ねたシーン。養父母の家でも学校でも自信無げに俯いていたシュロモが、ここでは子供らしい素顔を自然に出していた。シュロモは、その後も彼を度々訪ね、悩みや葛藤をぶつける。彼の存在も、養母や恋人とは違う、同じ黒人という意味での救いだったのだろう。




しかしシュロモには、養父母や恋人にはむろん、同じエチオピア人の彼にも言えない秘密を抱えている。宗教を偽っている事だ。ユダヤ人の定義というのがどうも曖昧なのだが、ユダヤ教徒であること、母親がユダヤ人であることらしい。そのユダヤ教徒であることの定義も、「政治的な要請」によって決まる。

エチオピアのユダヤ人も、そうやってイスラエルによって線引きされた。その、イスラエルの都合に合せた恣意的な選別に対して、この映画は疑問を呈していると思う。



ここで、冒頭のシーンに戻ってみる。よく考えられた映画は、冒頭シーンですべてを語っている事が多い。

このシーンで不思議なのは、子供を亡くした女性の後をシュロモに追わせた母親の表情だ。エチオピアのユダヤ人だけを迎えに来たトラックに並ぶ女性は、いきなり見知らぬ子供に手を繋がれて驚く。

その子供が振り返った先を見て、シュロモの母親と視線を交えるのだが、頼むという仕草一つしない。もちろん、声を挙げて頼んだりしたらイスラエル兵にウソがバレてしまう。

しかし他人に自分の子供を預け、しかもキリスト教徒の子供をユダヤ人と偽って連れて行って貰うのだ。それしか、キャンプを脱出して子供がチャンスを得る方法が無い。そして、彼女が拒否して騒いだらお終いなのだ。



母親としては、思わず縋るような表情になるのではないか?  しかしシュロモの母親は無表情で彼女を見返すだけだ。縋るような様子どころか、むしろ威厳さえ感じる。

それは、この選別に対する拒絶ではないか?

 彼女の息子が亡くなり一つの席が空くのなら、息子のシュロモがそれを使うのは当然だ。たとえ、イスラエルの決めたユダヤ人という条件に合って無くても。なぜなら、死んだ子供とシュロモは、何も変わらない同じ命なのだから。このキャンプに居る限り、希望も安全も無い一つの命なのだから。

そんな思いが、哀願ではなくて威厳のある無表情を作ったのではないだろうか? そして、同じようにエチオピアでの内戦と飢餓をくぐり抜け、このキャンプで子供を亡くした女性には、その思いが分かったのではないだろうか。

そしてそれが、この映画で監督が伝えたかった事ではないだろうか。



母親が別れ際に言った、「VA, VIS ET DEVIENS」「行け、生きよ、生まれ変われ」という言葉は、そうして良いんだ、そうするべきなんだという強いメッセージだろう。生きるチャンスを掴む事は、他の如何なる事より大事な使命だ。


おしまい




2013年6月15日土曜日

深読みしたくなる映画「約束の旅路」その2


【感想】
広告やレビューを見ると、「感動的なヒューマンドラマ」だそうだ。もちろん、そう観ることも出来るし、それが自然だろう。エチオピア難民の少年が何重もの重荷に葛藤しながらも、周囲の愛情と本人の努力によって幸せな家庭を持ち、実の母との再会まで果たす…確かに感動的な物語だ。

しかし、なにか引っ掛かる。もし監督の狙いが本当に「感動的なヒューマンドラマ」なら、映画全体の構成というかバランスが悪いように思える。それに不要な設定も多く、話が複雑に成り過ぎている。単に材料を盛り込み過ぎただけなのか、整理が上手くなかっただけなのか?  それとも、なにか意図があってそうしたのだろうか?



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まず奇妙なのは、なぜ主人公をキリスト教徒の子供と設定したのだろう? エチオピア系ユダヤ人の子供という設定にした方がシンプルだ。それでも充分に、主人公が乗り越える苦難や葛藤を描ける。何かのトラブルで産みの母親とはぐれ、独りで「救出部隊」のトラックに乗ったとすれば良い。

主人公が本当はキリスト教徒の子供であり、ウソをついてエチオピア系ユダヤ人に成りすました事は、この映画で何も解決していない。いくら彼女や養母が許しても、イスラエル社会からみれば偽ユダヤ人であり、イスラエルを騙した詐欺師だ。映画の中でも、そうしたエチオピア人の摘発と強制送還の話が出て来る。

感動的なはずのラストシーンも、上記の事を考えると、新たな苦悩が増えただけではと逆に重い気持ちになった。主人公がユダヤ教徒の息子なら、このラストシーンが安心できるものになっただろうに。

しかし、もしこの映画が、「感動的なヒーマンドラマ」という体裁を整えながら、実は別な意図で作られたとしたらどうだろう? その意図とは、イスラエルに対する批判、特に「救出」と称した作戦の目的と結果に対する批判だ。もしそうなら、無駄に思えた設定が重要な意味を持ってくる。そして不自然なほどバランスの悪い構成も、ある意味で仕方なかったのだろうと思う。




もちろん、単に深読みし過ぎた妄想かもしれない。以下は、そのつもりで読んで欲しい。

まず、エチオピア系ユダヤ人の問題は、今も続いている。彼らはイスラエル社会の最下層を構成する存在だ。少し検索すれば、イスラエルにおけるエチオピア系ユダヤ人への差別問題が出て来る。例えば以下のような事件もあった。

「1996年1月末、エチオピア系ユダヤ人はエイズ・ウイルス感染の危険性が高いとして、「イスラエル血液銀行」が同ユダヤ人の献血した血液だけを秘密裏に全面破棄していたことが発覚した。更にイスラエル保健相が、「彼らのエイズ感染率は平均の50倍」と破棄措置を正当化した。」
http://inri.client.jp/hexagon/floorA1F/a1f1303.html

さらに、こんな話もある。
「イスラエル政府は5年前からエチオピア系のユダヤ人女性に避妊薬デポプロベラを用い避妊を強要していたことを認めた。」
http://electronicintifada.net/blogs/ali-abunimah/did-israel-violate-genocide-convention-forcing-contraceptives-ethiopian-women




こうした状況では、イスラエルが「人道的救出」と自画自賛している「モーセ作戦」や「ソロモン作戦」などの、エチオピア系ユダヤ人救出作戦の本当の目的に疑問が湧いてくる。そもそも、イスラエルがエチオピア系ユダヤ人を認めたのは、建国から25年以上も経った1970年代だ。

すると、次のような見方も説得力を持って来る。
「パレスチナ人との人口比競争において優位を保つためには、イスラエル国家は恒常的にユダヤ人移民を入れ続けなければならないという政治的要請があった。しかし、ヨーロッパからのユダヤ人移民の波がイスラエル建国後すぐに収束し、地中海・アラブ地域からの移民が50年代と60年代で収束してしまった。そこで、内戦と飢餓で国から逃げ出しているエチオピア人に目をつけ…」

つまり人道でもなんでも無く、ただイスラエルの都合によって行われた「救出作戦」だったという見方だ。もしそうであるなら、エチオピア系ユダヤ人だと認める条件も、救出する人数も、その後の扱いも、イスラエルの都合によって決められる。




イスラエルの都合とは、イスラエルの中枢を握るヨーロッパ系のユダヤ人、要するに白人のユダヤ人の都合という事だ。そう考えたなら、献血した血液を捨てたり、調整の為に避妊薬を使ったりするのも頷ける。また、エチオピア系ユダヤ人がイスラエル社会の最下層に置かれているのも理解出来る。

つまり白人のユダヤ人にとって、黒人のユダヤ人は必要に迫られて仕方無く連れて来ただけで、決して同胞とは考えて無いのだろう。現実の状況からは、そう見える。

しかし欧州で、特にフランスで、イスラエルに対する批判を公然と行うのは難しいという話も耳にする。反ユダヤ主義という非難が起きるからだ。世界での公開を前提としている映画なら、そうした抵抗はもっと大きいかもしれない。そこで、「感動的なヒーマンドラマ」という体裁が必要だったと考えるのは、空想が過ぎるだろうか。

そういう意図の映画だと仮定して、いくつかのシーンを考えてみたい。

その3へ




2013年6月14日金曜日

深読みしたくなる映画「約束の旅路」その1


【データ】
原題:VA, VIS ET DEVIENS
公開:2005年
制作:フランス
監督:ラデュ・ミヘイレアニュ
出演:アルマンド・アマール, ロシュディ・ゼム, シラク・M.サバハ, ヤエル・アベカシス
時間:149 分


【原題】
原題は、「VA, VIS ET DEVIENS」。母親が、息子と別れる時にかけた言葉だ。日本語訳で「行け、生きよ、生まれ変われ」という意味だそうだが、字幕で使われていた「 行け、生きろ、そして何者かになりなさい」という訳の方が印象的だった。



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【あらすじ】
イスラエルは1984年に、「モーセ作戦」を実行した。飢餓と内戦に苦しむエチオピアから、エチオピア系ユダヤ人だけを救出してイスラエルヘ連れ帰る秘密作戦だ。イスラエルの「救出部隊」は、スーダンの難民キャンプのエチオピア難民の元にもやって来た。九歳の少年は母の機転によって救出のトラックに乗り、イスラエルで新しい家族得る。しかし何重もの重荷を背負った彼は、長い葛藤の日々を送ることになる。



【冒頭シーン】
エチオピアの隣国、スーダンの砂漠に作られたエチオピア難民のキャンプ。ベットと粗末な机が一つだけという赤十字のテントで、子供を抱いた母親が地べたに座り込んでいた。彼女の顔に表情は無い。たった一人の医者は子供の瞳孔を確認すると、その瞼を閉じてあげる事しか出来なかった。それでも母親は無表情のままで、とっくに心を失っているようだ。

その様子を少し離れた所から、じっと見ている女がいた。傍には、僅かな食事を半分残して彼女に差し出す男の子。それを優しく押し返して食べさせながら、またさっきの母親をじっと見ている。


夜中、キャンプに銃を持った兵士と何台ものトラックがやって来た。難民の中のユダヤ教徒だけが呼ばれ、列を作り始める。息子を亡くした母親もユダヤ教徒で、独り列に並んでいる。それを見ていた女は寝ている息子を起こし、彼らと一緒に行けと言った。

幼い男の子は、母親と別れることを嫌がった。離れることが嫌なのか、母を置いて行くことが心配なのか。しかし抱きつく彼を母親は突き放し、「VA, VIS ET DEVIENS ( 行け、生きろ、そして何者かになりなさい)」と言う。男の子は母親の威厳に満ちた態度に、悲しそうな顔で俯いて列に向う。


男の子の母親は、首に十字架を付けていた。当然、男の子もユダヤ教徒では無い。彼は母親に言われた通り、息子を亡くして独り列に並んでいる女性の手を握った。女性は驚いて振り返り、息子を送り出した母親と視線を交える。二人の母親は、共に無言で、共に無表情だったが全ては通じた。男の子の手を強く握り直して、列を進んで行く。

トラックの前では、イスラエル軍がユダヤ教徒であるかチェックしている。問われた女は少年を自分の息子だと言い、キャンプの医師もそれを保証した。彼女の本当の息子を看取った、あの医者だ。チェックが終わりトラックへ向う時、男の子は母親の方に振り返ろうとした。しかし彼女は、それを強く制して歩かせた。


こうして実の母親と別れ、宗教も先祖も偽り、少年は「シュロモ」というユダヤ名のイスラエル市民となった。一日で4200人もの、エチオピア系ユダヤ人をイスラエルに空輸した「モーセ作戦」の、一つの情景だ。同様の作戦はその後も行われ、六万人のエチオピア系ユダヤ人がイスラエルに移住した。


その2へ