2013年9月29日日曜日

遺体 明日への十日間


◼︎原題:遺体 明日への十日間
◼︎製作年:2013年2月
◼︎製作国:日本
◼︎監督:君塚良一
◼︎上映時間:105 分
◼︎主演:西田敏行, 緒形直人

◼︎粗筋:

ジャーナリスト石井光太が、2011年3月11日に発生した東日本大震災から十日間、岩手県釜石市の遺体安置所で、石井本人が見てきたありのままを綴ったルポルタージュ『遺体 震災、津波の果てに』を映像化した作品。



遺体 明日への十日間 [DVD]
ポニーキャニオン (2013-09-18)
売り上げランキング: 440


◼︎感想:
先のエントリーが、タイのリゾートで津波に襲われた家族の実話、「インポッシブル」だったので、同じように津波に襲われた人々を日本の映画ならどう描くのだろうと思い、この作品を観た。

最初の印象は、二つの作品が決定的に違うという事だ。それも、根本的に、まったく違う。もちろん、舞台もテーマもビジネスとしてのスタイルも違う作品を、較べる方が間違っている。それは承知だが、「違うなぁ」という思いは消えない。

たとえて言うなら、万人受けするファミレスの料理と、祖母の田舎料理の違いか。

「インポッシブル」は、素材のアク抜きも絶妙だし盛り付けも綺麗だ。迫力ある津波のシーン、ハラハラする再会シーンと、見せ場をきっちり用意する一方で、家族で観られるように悲惨な光景はソフトに描いている。つまり、世界中の大人でも子供でも観てもらえる映画に仕上がっている。

しかし、「遺体 明日への十日間」は、違う。この作品は、伝えたい事が先にあって、映画はその手段の一つに過ぎないのだろう。伝えたいという思いが先で、見せ場も気遣いも二の次だ。とても、家族揃って気軽に観たり、万人が映画として楽しめるような作品ではない。

あの激しい地震や巨大な津波の描写こそ無いが、舞台となる体育館に運び込まれる遺体は、かなり衝撃的だ。もちろん、実際のまま描く事は出来ないだろうが、それでも充分に痛ましかった。思わず目をそむける人も少なく無いだろう。


--------------------------------------------------------------------------------
そんな映画、「遺体 明日への十日間」が、伝えたかったものは何だろう? それは、「明日への十日間」というサブタイトルそのものだと思う。

突然、信じられないような巨大な津波で、家族や恋人・友人を亡くした人々が普通の精神でいられるはずが無い。そんな人たちが明日ヘ向うには、正気を取り戻す必要がある。

ちなみに、人が死を受け入れる時、「否認と孤立」→「怒り」→「取引き」→「抑鬱」→「受容」と、五つの段階を経るそうだ。最後の「受容」に至らないと、正気を取り戻すことは出来ない。

映画の舞台は、震災によって遺体安置所となった釜石市にある学校の体育館だ。ここで遺族や関係者が、段階を経て死を「受容」する。その「明日ヘ」向かうために必要な過程を描いたのが、この作品だ。その意味で、ふと「おくりびと」を想起させる。


--------------------------------------------------------------------------------
安置所となった体育館には、次々と遺体が運ばれて来る。市の職員は、何をしていいか分らない。消防団や自衛隊・医者たちは、自分たちの仕事だけで手いっぱいだ。

体育館の床は泥だらけ、遺体を覆うのはビニールシート。どんどん運ばれる遺体は、なんの整理もされ無ず無造作に並べられる。死後硬直した遺体の骨を折る音、イライラした人々の怒号。そんな中に、家族の遺体を探しに来る人々。このままでは、「受容」に至るどころか、否定・怒り・鬱に遺族が閉じ込められてしまう。

そんな状態を救う切っ掛けとなったのが、西田敏行演じる民生委員の相葉常夫だ。相葉は葬祭関係の経験があるという事で、ボランティアとして協力を申し出たのだ。

彼、遺体を丁寧に扱い、そして遺族と共に語り掛けた。家族の遺体は隣同士に並べ、床の掃除も始める。余りにも多い遺体に呆然としている人や、悲しさを怒りに変えている人たちに、やっとそこから抜け出す道筋が見えたように思えた。

まず、遺体の多さに呆然としていた市の職員が、相葉の行動に反応する。急拵えの祭壇を作り線香を立て、ぎこちなく遺族に声を掛け、あるいは黙々と床を掃除した。明らかに、何かが動き始めたのだ。


--------------------------------------------------------------------------------
不思議なもので、動き始めると必要なものが揃い始める。いや、実際には足りないのだが、あるものを尊重すべきと分って来るのだろう。

地元の僧侶が、歩いて読経を上げに来てくれる。市が、手を尽くして棺を集める。火葬場の修理、他県への協力依頼、もちろん充分なはずも無いが動き出す。

僧侶の読経に、それまで我が子の遺体にすがり付いていた母親が顔を上げる。出来る限り綺麗にして、棺に遺体を納める。手配の付いた棺を見送る。一連の、日本人が育んで来た「死を受容する」ステップが踏まれて行く。

愛する者の突然の死に、怒りや喪失に囚われていた人々が、言葉を発し、また感謝すら表せるようになる。家族を失った痛みが消えるわけではないが、明日に向かって一歩は踏み出せている。その過程を見守ったのが、この映画だ。


--------------------------------------------------------------------------------
作品を観終わって、気になる点が二つ。一つは、死を受け入れる知恵は文化として残っていたが、システムとしては、まったく用意されてなかった点だ。もちろん、こんな大きな犠牲を想定していた市町村は無いだろう。だから今までは仕方ないが、これからは違う。

相葉氏や僧侶のような人の存在を、偶然に頼ってはいけない。市職員の訓練にも限度がある。とすれば、地域社会にとって必要な職業や人材を、地域社会が普段から大事にするしか無い。何もない時には、もっと便利な、もっと安い方法があると思ってしまうだろうが、失ってしまったらイザという時に自分たちが困る事になる。簡単に他所から呼べるとは、限らないのだから。

もう一点は、西田敏行でなかった方が良かったのに…。どうも以前から、この俳優さんが苦手だ。彼の演じる役は、いつも喋り過ぎる。しかも喋りがクドい。あの半分の喋りだったら、もっと感情移入がしやすかったのではと、つい思ってしまった。



0 件のコメント:

コメントを投稿