2013年10月22日火曜日

壮大な罠?「ゼロ タウン 始まりの地」


◼︎原題:Zaytoun(オリーブの枝)
◼︎製作年:2012年
◼︎製作国:イギリス、イスラエル
◼︎監督:エラン・リクリス
◼︎上映時間:107分
◼︎主演:スティーヴン・ドーフ
◼︎粗筋:
1982年にベイルートで撃ち落された戦闘機のパイロットと、敵対するパレスチナの難民の子供の逃走&友情劇。



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◼︎感想:
敵同士の二人が、危険な旅を通して友情を育む。いい話だが、ありがちなストーリーでもある。だから、その部分は省略する。もし、この映画のストーリー通りのレビューを読みたいなら、他のサイトを見て欲しい。

この映画に惹かれたのは、ただ一点だけ。もしかしたら、この作品は壮大な罠なのでは?という疑問だ。つまり、この映画そのものは単なる前振りであり、本当の主題は映画の外にあるのではないかということだ。もしそれが当たっていたら、これほどやるせない映画は無いだろう。


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舞台は、レバノン戦争直前の1982年。主人公は、少年とパイロット。

少年の名はファヘッド、イスラエル建国によって故郷を追われたパレスチナ難民の三世だ。レバノンの首都、ベイルートの難民キャンプに住んでいる。諦め顔の祖父と、故郷から持って来たオリーブの木を大切にし、いつか帰る事を夢見てる父。しかしファヘッドは、パレスチナの解放を唱えるPLOの軍事訓練にも参加せず、この危険な街で日々を楽しんでいた。

そんな少年らしい時間は、空爆で父が殺されて終わる。ファヘッドは訓練にも参加し、PLOの下働きをするようになる。そしてある日、墜落した戦闘機から一人の男が捕虜となった。

捕虜となったパイロットの名はヨニ。

(その名前からも、作品中での言動からも、彼はイスラエル空軍のパイロットとしか思えない。しかし、この映画を紹介する多くのサイトでは、アメリカ軍のパイロットと書かれている。もしヨニがイスラエルの兵士で無いなら、冒頭に書いた話は的外れという事になり、これ以上書くことは無い。しかしせっかく書き始めたので、この捕虜をイスラエル兵と仮定して話を進めてみる。)


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ヨニの監視役となったファヘッドは、彼に怒りをぶつけながらも、今はイスラエル領となった故郷に連れて行くなら逃がしてやると持ち掛ける。彼の望みは死んだ父の夢を叶えること、つまり、あのオリーブの木を故郷の地に植えることだ。

他に脱出の術が無いと悟ったヨニは、不承不承にファヘッドの提案を承諾する。この時から二人にとって、周囲はすべて敵になった。ヨニはもちろん、彼を逃がしたファヘッドもPLOに追われるし、入り乱れる各勢力も二人のどちらかにとっての敵だ。

こうして、敵対しながらも助け合わなければ生きて目的を達せられない、そんな二人の旅が始まる。ハラハラ、ドキドキ、そしてたまに笑える逃走劇。そこは、先に断ったとおり省略する。


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なんとかイスラエル領に辿り着いた二人。ヨニの好意でファヘッドは父祖の故郷を見つけ、あのオリーブの木を植える。目的を達した彼は、一人ベイルートへ戻る。

その別れ際の二人の会話。ファヘッドはヨニに、またベイルートにおいでよと言う。ヨニは、ああ行くよと答える。もちろん、二人は平和になった時の事を想定して言っている。

映画は、ここで終わる。

しかし、この作品が前振りのために作られたとしたら、物語はまだ続くはずだ。そしてそれは、現実の歴史の中にある。そう、この映画の中の時間と、現実の時間を繋げるのだ。

ファヘッドとヨニの旅は、1982年のレバノン戦争の直前と設定されている。おそらく、五月頃だろう。では、二人が別れた後に起きた出来事を追ってみよう。


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ファヘッドとヨニが、再会を約して別れた一ヶ月後の六月。

ガリラヤの平和作戦と称して、イスラエルがレバノンに侵攻する。レバノン戦争の始まりだ。イスラエル軍はPLOの主な拠点であった南部を制圧したが、さらに軍を進めてベイルートを包囲した。首都で多くの市民を犠牲にして、ついにPLOをレバノンから追放する。

ところが、悲劇はそれで終わらなかった。レバノンに親イスラエル政権を樹立させる目論みが、バシール・ジェマイエルの暗殺によって頓挫してしまったのだ。イスラエルは激怒し、その意を汲むかのように親イスラエルの民兵組織が、ベイルートの難民キャンプを襲った。

ファヘッドとヨニが別れた四ヶ月後の、1982年9月のことだ。

これがアリ・フォルマン監督の「戦場でワルツを」でも描かれた、サブラー・シャティーラ事件だ。たった三日の間に、女も子供も、1500人以上の難民が虐殺された。この事件は国際的な非難を浴び、イスラエルのシャロン国防相が辞任している。


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さて、ファヘッドがヨニと別れて帰った先は、ベイルートの難民キャンプだ。そこに住んで居たのだし、祖父も待っている。そのキャンプ名は明示されていないが、同じベイルートだ。虐殺の起きたサブラーかシャティーラであると考えても、そんなに無理は無いだろう。

そしてヨニがイスラエル兵であると仮定したら、パイロットだから地上戦には関わらずとも、イスラエルのレバノン侵攻を空から助け、ベイルートを空爆しただろう。それは、サブラー・シャティーラでの虐殺に至るお膳立てを手伝ったとも言える。

ファヘッドに、またおいでよ…と言われ、ああ行くよと答えたヨニ。それは美しい人間の約束としてではなく、おぞましい悲劇として実現したのかもしれない。そしてこの映画は、虐殺されたであろうファベットを史実に沿って想像する事まで含めた作品かもしれない。

もしそうなら、この映画は壮大な前振りに過ぎず、別れのシーンの会話とその後に起きる歴史の事実こそが主題となる。やるせない、そして言葉を失うほど重い作品だ。





✳︎それにしても、変な邦題をつけたなぁ。意味が分からん。






2013年9月29日日曜日

遺体 明日への十日間


◼︎原題:遺体 明日への十日間
◼︎製作年:2013年2月
◼︎製作国:日本
◼︎監督:君塚良一
◼︎上映時間:105 分
◼︎主演:西田敏行, 緒形直人

◼︎粗筋:

ジャーナリスト石井光太が、2011年3月11日に発生した東日本大震災から十日間、岩手県釜石市の遺体安置所で、石井本人が見てきたありのままを綴ったルポルタージュ『遺体 震災、津波の果てに』を映像化した作品。



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◼︎感想:
先のエントリーが、タイのリゾートで津波に襲われた家族の実話、「インポッシブル」だったので、同じように津波に襲われた人々を日本の映画ならどう描くのだろうと思い、この作品を観た。

最初の印象は、二つの作品が決定的に違うという事だ。それも、根本的に、まったく違う。もちろん、舞台もテーマもビジネスとしてのスタイルも違う作品を、較べる方が間違っている。それは承知だが、「違うなぁ」という思いは消えない。

たとえて言うなら、万人受けするファミレスの料理と、祖母の田舎料理の違いか。

「インポッシブル」は、素材のアク抜きも絶妙だし盛り付けも綺麗だ。迫力ある津波のシーン、ハラハラする再会シーンと、見せ場をきっちり用意する一方で、家族で観られるように悲惨な光景はソフトに描いている。つまり、世界中の大人でも子供でも観てもらえる映画に仕上がっている。

しかし、「遺体 明日への十日間」は、違う。この作品は、伝えたい事が先にあって、映画はその手段の一つに過ぎないのだろう。伝えたいという思いが先で、見せ場も気遣いも二の次だ。とても、家族揃って気軽に観たり、万人が映画として楽しめるような作品ではない。

あの激しい地震や巨大な津波の描写こそ無いが、舞台となる体育館に運び込まれる遺体は、かなり衝撃的だ。もちろん、実際のまま描く事は出来ないだろうが、それでも充分に痛ましかった。思わず目をそむける人も少なく無いだろう。


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そんな映画、「遺体 明日への十日間」が、伝えたかったものは何だろう? それは、「明日への十日間」というサブタイトルそのものだと思う。

突然、信じられないような巨大な津波で、家族や恋人・友人を亡くした人々が普通の精神でいられるはずが無い。そんな人たちが明日ヘ向うには、正気を取り戻す必要がある。

ちなみに、人が死を受け入れる時、「否認と孤立」→「怒り」→「取引き」→「抑鬱」→「受容」と、五つの段階を経るそうだ。最後の「受容」に至らないと、正気を取り戻すことは出来ない。

映画の舞台は、震災によって遺体安置所となった釜石市にある学校の体育館だ。ここで遺族や関係者が、段階を経て死を「受容」する。その「明日ヘ」向かうために必要な過程を描いたのが、この作品だ。その意味で、ふと「おくりびと」を想起させる。


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安置所となった体育館には、次々と遺体が運ばれて来る。市の職員は、何をしていいか分らない。消防団や自衛隊・医者たちは、自分たちの仕事だけで手いっぱいだ。

体育館の床は泥だらけ、遺体を覆うのはビニールシート。どんどん運ばれる遺体は、なんの整理もされ無ず無造作に並べられる。死後硬直した遺体の骨を折る音、イライラした人々の怒号。そんな中に、家族の遺体を探しに来る人々。このままでは、「受容」に至るどころか、否定・怒り・鬱に遺族が閉じ込められてしまう。

そんな状態を救う切っ掛けとなったのが、西田敏行演じる民生委員の相葉常夫だ。相葉は葬祭関係の経験があるという事で、ボランティアとして協力を申し出たのだ。

彼、遺体を丁寧に扱い、そして遺族と共に語り掛けた。家族の遺体は隣同士に並べ、床の掃除も始める。余りにも多い遺体に呆然としている人や、悲しさを怒りに変えている人たちに、やっとそこから抜け出す道筋が見えたように思えた。

まず、遺体の多さに呆然としていた市の職員が、相葉の行動に反応する。急拵えの祭壇を作り線香を立て、ぎこちなく遺族に声を掛け、あるいは黙々と床を掃除した。明らかに、何かが動き始めたのだ。


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不思議なもので、動き始めると必要なものが揃い始める。いや、実際には足りないのだが、あるものを尊重すべきと分って来るのだろう。

地元の僧侶が、歩いて読経を上げに来てくれる。市が、手を尽くして棺を集める。火葬場の修理、他県への協力依頼、もちろん充分なはずも無いが動き出す。

僧侶の読経に、それまで我が子の遺体にすがり付いていた母親が顔を上げる。出来る限り綺麗にして、棺に遺体を納める。手配の付いた棺を見送る。一連の、日本人が育んで来た「死を受容する」ステップが踏まれて行く。

愛する者の突然の死に、怒りや喪失に囚われていた人々が、言葉を発し、また感謝すら表せるようになる。家族を失った痛みが消えるわけではないが、明日に向かって一歩は踏み出せている。その過程を見守ったのが、この映画だ。


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作品を観終わって、気になる点が二つ。一つは、死を受け入れる知恵は文化として残っていたが、システムとしては、まったく用意されてなかった点だ。もちろん、こんな大きな犠牲を想定していた市町村は無いだろう。だから今までは仕方ないが、これからは違う。

相葉氏や僧侶のような人の存在を、偶然に頼ってはいけない。市職員の訓練にも限度がある。とすれば、地域社会にとって必要な職業や人材を、地域社会が普段から大事にするしか無い。何もない時には、もっと便利な、もっと安い方法があると思ってしまうだろうが、失ってしまったらイザという時に自分たちが困る事になる。簡単に他所から呼べるとは、限らないのだから。

もう一点は、西田敏行でなかった方が良かったのに…。どうも以前から、この俳優さんが苦手だ。彼の演じる役は、いつも喋り過ぎる。しかも喋りがクドい。あの半分の喋りだったら、もっと感情移入がしやすかったのではと、つい思ってしまった。



2013年9月28日土曜日

インポッシブル

インポッシブル
原題:The Impossible
製作年:2012年
製作国:スペイン・アメリカ合作
上映時間:114分
主演:ナオミ・ワッツ、ユアン・マクレガー

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■粗筋
2004年のスマトラ島沖地震で、津波に襲われた家族の実話を映画化。



■感想
冒頭シーンは、家族がバカンスに向かう飛行機の中だ。そこで、留守にした家のセコムをオンにしたか、しきりに心配する夫。セコム?と驚いたが、日本に在住しているという設定だった。

この飛行機の中で、大事なシーンがある。

既に少年期に入っている長男ルーカスにとって、幼すぎる弟たちは邪魔なのだろう。ヘッドホンをして、自分の世界に入っている。隣の席の次男トマスは、兄に邪険にされて嫌だと母マリアの席まで来て訴える。マリアはルーカスの隣に行き、弟にもっと優しくしなさいと諭す。

少し歳の離れた兄弟なら、よくある事だ。しかし、このシーンは後の伏線になっている。


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マリアの家族が、タイのリゾートホテルに着いて、ほんの一日か二日ほど楽しんだ頃。突然、津波のシーンがやって来る。これは圧巻だ。

大きな災害や事故が起きると、それを想起させるようなドラマや映画を延期するという事がある。以前から、そんなのはバカバカしいと思っていた。しかし、この映画を観て少し考えが変った。

襲い掛かる水の塊、呑まれ、もがき、打ち付けられ、皮膚が裂ける。観ていて、痛みを皮膚に感じるほどだった。なるほど、この映画を日本で上映するには、やはり時期を選ぶ必要があっただろう。

それほど生々しい迫力があった津波シーンだが、しかしそれでも、あの震災の津波映像に較べたら恐怖は少ない。タイの津波がそうだったのか、あるいは敢えて描かなかったのか。もっとも、津波そのものは、この映画のテーマでは無い。


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家族五人がバラバラに流された後、マリアと長男ルーカスは濁流の中で互いを見つける。やがて水が引いた後の荒れ地を、二人は大きな木を目指して歩く。第二波、第三波を避ける為だ。

しかし、マリアは足に大きな怪我を負っていた。焦るルーカス。そこに、何処からか幼い子供の声がする。マリアは声の主を探そうとするが、ルーカスが止める。今は自分たちの事で精一杯だ、次の津波が来る前に早く木に登ろうと。それでもマリアは、声を頼りに一人の子供を助ける。

やがて三人は村人に助けられ、病院に運ばれる。マリアはかなり危ない状態で、ルーカスはそばに付きっきりだ。その時マリアは、自分は大丈夫だから、ここで誰か他の人の役に立ちなさいと言う。


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ルーカスは何をしていいか分からず、人で溢れた病院をうろつく。すると白人の大人が、写真を突き出して何やらまくし立てる。英語ではなかったが、子供を探していると分った。名前をメモして、呼びながら病院中を歩くルーカス。するとほかの人も自分の家族や子供を探して欲しいと頼んできた。

いっぱいになったメモの名前を呼びながら歩く。その途中で、マリアが助けた幼い子供が、親と再会して喜んでるところを目にする。さらに病院の人混みを歩くルーカス。そしてついに、メモの中の一人を見つける。

その時、ルーカスがとても嬉しそうな笑顔を見せる。飛行機の中でも、子供を助ける事に反対した時も、不機嫌そうだった彼が嬉しそうに笑う。


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ここで、この映画の主人公はルーカスだと思った。
二度見せた不機嫌な顔、二度見せた嬉しそうな顔。

母親は特別として、それ以外の人間、ましてや他人などには興味が無かったルーカス。自分の好きな音楽に浸るために、隣の弟を無視して何時間でも平気だったルーカス。泥の中に取り残された子供の声を聞いても、それを無視しようとしたルーカス。その頃の彼は、不機嫌な顔ばかりだった。

しかし、病院で次々と頼まれた人探しのメモを取る時のルーカス。やっと、たった一人だけれど見つけ出した時のルーカス。そして、あの助けた子供が父親と再会したところを見たルーカス。その時の彼は、本当に嬉しそうな笑顔だった。

シンガポールの病院に向かう飛行機の中で、母にその事を報告する。マリアは涙を溢れさせながら、ルーカスを誇りに思うと言って抱きしめる。このルーカスの、前半と後半のコントラストこそ、映画のテーマかもしれない。


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最後に、この映画のタイトル、「The Impossible」は、何を意味するのだろう? 直訳すれば、出来ないとか、無理、不可能などの意味だ。では、何が出来ないのだろう? 何が不可能なのだろう?

自然の脅威の前には何も出来ない、抗う事は不可能という意味か? それとも、こうした体験をした後、もう以前には戻れないという意味か?

どうも、いま一つ、このタイトルは分からない。











2013年9月27日金曜日

面倒な映画

映画には、二通りある。

エンドロールが流れて終わる映画と、それから始まる映画だ。
別な言い方をすれば、何らかのカタルシスを味わって終わる映画と、自分で気持ちの落とし所を探さないといけない映画とだ。

後者の映画の場合、観終わった後に、そのテーマや背景を調べて自分なりに考える必要が出て来る。それをしないと、なんだか消化不良のような釈然としない気持を引きずってしまう。

元来、映画は娯楽なのだから、観終わってすっきり楽しめる作品が良いに決まっている。しかし、概してそうした作品は直ぐに忘れてしまう。一方、自分で落とし所を見つけるタイプの作品は、面倒ではあるが一生の記憶に残る。

ということで、今日も面倒な作品を探している。

2013年7月1日月曜日

憎悪の袋小路「灼熱の魂」その2


【印象的なシーン・三つの絶望】
虚ろな目と、表情を失った顔。周囲の一切に反応しない、孤独と絶望の顔。ナワルは、そんな姿を三度見せる。


まず、最初の妊娠と駆け落ちの時。兄弟たちにムスリムの恋人を殺され、自分も家族の恥として銃を頭に突き付けられた時。幸せを掴むはずだったのに、一転して全てを失った。その絶望にナワルは表情を失い、抵抗すら放棄した。

祖母の計らいで命は助けられるが、産んだ子供は直ぐ孤児院ヘ送られ、ナワル自身も町の親戚に預けられる。つまり、周囲の言うままに従った。

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次は、乗り合わせたバスが襲撃された時。ムスリムを狙った無差別殺戮で、
キリスト教徒だったナワル以外の全員が殺された。彼女は十字架の首飾りを掲げて、自分がキリスト教徒であると叫ぶことで助かった。

自分が目の前の殺戮者たちと同じ側の人間だと叫ぶ以外、助かる術は無かった。しかし、せめて救おうとしたムスリムの子供は、その彼らによって目の前で撃ち殺された。

火をかけられたバスが激しく燃えている。周りには荒れ地が広がるだけ。それ以外には、何も無い。この理不尽を止めるものも、咎めるものも、罰するものも無い。その絶望と嫌悪にナワルは表情を失い、荒れ地に座り込む。

その後、彼女は暗殺者として、戦いの場に参加する。選択し、行動したのだ。この、憎悪の一方の側に身を置いた時の彼女が、一番輝いて美しく見えた。



最後は、冒頭の市民プールのシーン。自分の半生の全てを理解した時の絶望。もはや彼女を救う祖母も親も亡く、彼女が選択出来る憎悪の側も無い。愛の対象と憎悪の対象が同一と知ってしまった彼女は、憎悪の袋小路で表情を失う。

ナワルの遺した遺言は、ジャンヌとシモンに三つの絶望を追体験させ、憎悪が人を袋小路に導くと教えたのかもしれない。






【憎悪の連鎖】
この映画は、壮絶で美しい物語だ。しかし、最初にも書いたように、憎悪の連鎖を断ち切る何かを示しているとは思えなかった。

現実で考えた場合、憎悪の対象から遠く離れ、出来るだけ忘れるのがベストではないか?  ナワルがキリスト教武装勢力への憎悪に駆られた時、暗殺者ではなくカナダへの移住を選んでいたら…。

遠く離れる事が無理な状態なら、出来るだけ早く和平協定なりを結ぶとか、教育や宗教で若い世代を変えるという事になるのだろう。ただ、それは歴史をみる限り、あまり効果は無いようだ。

紛争地域に限らず、憎悪の連鎖は何処にでもあるけれど、忘れていくという以外の解決方法は知らない。でも必ず、自分の利害に絡めて蒸し返す連中が出て来る。そうなれば、さまざまな努力は簡単に無となる。

さまざま民族や宗教が同居し、紛争の歴史を繰り返す国や地域の人たちにとって、憎悪の連鎖ほど厄介なものは無いだろう。こうしたテーマの作品も、おそらく無くなる事はない。


おしまい。


2013年6月30日日曜日

憎悪の袋小路「灼熱の魂」その1


【データ】
灼熱の魂
原題:Incendies
公開:2010年
制作:カナダ・フランス
監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
主演:ルブナ・アザバル
時間:131分

【原題】
「Incendies」とは、フランス語で炎、火事を意味しているそうだ。カナダ在住の劇作家ワジディ・ムアワッドの「浜辺」、「火事」、「森」、「空」と続く「約束の地」四部作という舞台作品の、第2作目を映画化したもの。不満が残る気がするのは、四部作の部分だからかもしれない。

【あらすじ】
カナダ・ケベック州に住む双子の姉弟(ジャンヌとシモン)は、亡くなった母親(ナワル)の遺言で父親と兄の存在を知る。そして母親の故郷であり、自分たちの生まれた地でもある中東の国に、初めて足を踏み入れる。



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【冒頭シーン】
ナワルは、娘のジャンヌに連れられて市民プールに来ている。平凡だが、平和な夏の一コマだ。しかしナワルは、そこで信じ難いものを目にしてしまう。その意味を理解した彼女は、まるで呆けたように表情を失う。


【感想】
徐々に明らかになる母ナワルの過去、そして姉弟の出生の秘密。ミステリーのような展開で引き込まれ、最後まで飽きさせる事が無い。そうした意味では、とてもよく出来た映画だ。

しかし、幾つかのレビューで言われているような、「憎悪の連鎖を断ち切る物語」とは、とても思えなかった。ナワルの託した二通の手紙も、憎悪の連鎖を断つ道を示しているとは思えない。むしろ憎悪の連鎖が辿り着いた、ひとつの袋小路ではないのかと感じた。



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以下は、ミステリー部分のネタばらしを含むので、この映画をまだ観ていない人は気を付けて下さい。
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母ナワルの遺言に従って父と兄を探すジャンヌとシモンは、その衝撃的な答えを知る。二通の手紙は、同じ人物へのものだった。1 + 1=1、つまり父と兄が同一人物というのは、憎悪の対象が愛の対象と同一だった事をも示している。

憎悪の対象を追い求めれば、それは愛の対象だった。愛の対象を追い求めれば、それは憎悪の対象だった。まるでメビウスの輪のようだ。憎むに憎めず、愛するに愛せず、あざ笑うことも、勝ち誇ることも出来ない。しかし、だからといって、憎悪を消す事も愛を忘れる事も出来ない。まさに袋小路ではないだろうか。


あの夏の市民プールで、ナワルはその事に気付いた。表情を失うほどの衝撃を受けるのも当然だ。その冬に彼女は亡くなり、遺言と二通の手紙を遺した。物語としては必要な展開だろう。しかし現実で考えたら、ナワルの遺言も手紙も、憎悪の連鎖を断ち切る行為とは正反対に思える。

少なくともジャンヌとシモンは、苦悩を抱え込んだ。それが憎悪に変わらないと、誰が言えるのか?  ナワルの遺した二通の手紙が、三人の子供たちと一人の父親の憎悪を浄化し、消しさるだろうか? その答えは無く、ただ憎悪の袋小路を見せ付けて終わってしまったという印象だ。

もっとも先に書いたように、原作の戯曲は四部作ということなので、物語には先があるのかも知れない。


ちなみに、この映画では火と水が印象的なシーンに使われている。その火と水については、以下のブログが興味深い解釈をされている。ただ、やはりそれでも姉弟の苦悩は大きく、重く残るだろうと思う。

[映画]灼熱の魂(ネタバレ)/笑わない女が歌うのは…
http://d.hatena.ne.jp/mina821/20120203/1328254874



その2へ










2013年6月21日金曜日

一生モノの映画「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」その3

前エントリーから。感想の続き。


・神が存在する物語とは、何を意味するのだろう?
二つの物語を語り終えた後の会話を、もう一度みてみる。

パイ:「どちらの物語でも、沈没理由は分からない。どちらの物語でも、それを証明出来ない。どちらの物語でも、家族は死ぬ。どちらの物語でも、私は苦しむ。 それで、どっちを選びたい?」

作家:「トラの物語を…そっちが良い物語だ」

パイ:「ありがとう。 それは、神が存在する物語だ」

この会話でパイが言った、神が存在する物語…とは、何を意味しているのだろう? ここにも多くの示唆が含まれているようだ。


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まず、トラの物語はパイが作った話だろうか?  いや、そうでは無いだろう。もし創作なら、二つの物語を語る必要は無い。救助された当初ならまだしも、長い年月が経っている。他者に語るべき物語がどちらなのかのという選択は、自ずと出来ているはずだ。

先のエントリーで、パイは未だにどちら物語を選ぶか決めかねていると書いた。が、より正確には、二つの物語のどちらもパイの記憶となっていて、どちらが、どこまで本当の体験と記憶なのか、本人も判別出来ないのだろう。「どちらの物語でも、それを証明出来ない」のだ。

つまり、どちらを選びたいか、自分で決めるしか無いということだ。それはパイであれ、彼から二つの物語を聞いた人であれ同じだ。そして、どちらの物語を選ぶか決めた瞬間、物語はその人だけの意味を持って完結する。

逆に言えば、二つの物語を語るパイは、まだ選ぶ事が出来ていない。なにしろ彼は当事者であり、「どちらの物語でも、私は苦しむ。」のだから。



では、トラの物語は、いつ生まれたのか?  それは、パイがメキシコの海岸に辿り着いて、意識を失った時だと思う。過酷な現実の舞台だった救命ボートから降りて、かつ、理性や論理性から解放された、その時にいきなり物語は生まれたのだろう。そして、それはもう一つの記憶となった。



そして、パイがトラの物語を、「それは、神が存在する物語だ」と表現したのは何故だろう?  それを知るには、彼が長い漂流の間に何を考え何を思ったのかを想像するしかない。

船が沈んで数日の間に、悲惨な出来事が起きてしまい、彼自身も恐ろしい事をしてしまう。それからの長い長い日々。生きる為に必死で闘いながらも、決して忘れる事の出来ない記憶が彼を責め続けただろう。

同時に彼は、神にも問い続けたのではないか。パイは、幼い頃から宗教に強い興味を持っている子供だった。それで無くとも、大海原を漂う彼の前に、人間の理解や想像を遥かに超越した光景が現れる。

神にすがり、苦悩をぶつけ、何度も何度も問い続けただろう。無論、何処からも神の声は返って来ない。しかし救助され意識を取り戻した時、彼は二つの記憶を持っていた。パイが、トラの物語を神からの返事だと捉えるのは、自然な事だと思う。神が存在したがゆえに生まれた物語、それを神のいる物語と言ったのだろう。

トラのいない物語だけなら、パイの苦しみは耐え難いほどだったかもしれない。果たして家庭を、子供を持つ事が出来ただろうか。トラのいる物語だけなら、彼は嘆きと悲しみを持ち続けるだろうが、自分に問い続けるという業は抱え込まずに済んだかもしれない。しかしそれでは、考える事も失う。

二つの物語が、判別出来ないほど記憶の一部となっているのは、それこそ神の絶妙な配分かもしれない。



他にもたくさん、考えるべき事がある。
なぜトラは最後までボートに居たのか?
二つの物語の違いは何か?
トラの物語が果たす役割は?

しかしキリが無いので、取り敢えずここまで。やはり一生モノの映画という評価は、大袈裟では無いと思う。

おしまい。

2013年6月20日木曜日

一生モノの映画「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」その2


【感想】
この映画については、既に多くのブログで書かれている。まず映像の美しさを讃え、そして二つ目の物語を様々に解釈し、その比喩を美しい映像から読み解く。そんな試みを、たくさんの人たちが行っている。

しかし、それでもまだ、この映画には気になるヒントが幾つも残されている。食事で始まり食事で終わることや、名前についてのエピソードの意味など、あれこれと考えだしたらキリが無い。一生モノの映画と名付けた由縁だ。

とりあえずここでは、主人公パイが、なぜ作家に二つの物語を語り、どちらを選ぶか問うたのか?  そして、神のいる物語とは何を意味するのか? この二点を考えてみた。


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・なぜ、二つの物語を語ったのだろう?  そして、問うたのだろう?
いくら親しい人からの紹介とはいえ、初対面の相手だ。しかも、本を書くために話を聞きに来ている。そんな人物に、二つ目の物語まで語るのはリスキーだろう。

トラと漂流した物語だけで、作家は充分に満足して帰ったはずだ。なぜ、そうしなかったのか。そのヒントは、家族は妻と猫と子供二人だと、パイが話した時の会話にある。

「じゃ、ハッピィーエンド?」と、作家が問うと、「それは、あなた次第だ。物語は今、あなたの手にある」そう、パイは答えた。

つまり、まだ結末は確定していないのだ。実はパイ自身が、生還して以来ずっと、そして今も自問と葛藤を続けているのではないだろうか。そして未だに選びきれていない。

だからこそ二つの物語を語り、どちらを選びたいかと他者に問うてみたのだろう。もしかしたら、これまでにも同じ問いを、誰かに投げ掛けて来たのかもしれない。


パイが作家に問うた時の会話は、こんなふうだ。「どちらの物語でも、沈没理由は分からない。どちらの物語でも、それを証明出来ない。どちらの物語でも、家族は死ぬ。どちらの物語でも、私は苦しむ。 それで、どっちを選びたい?」

作家は、ほんの少し間を空けて、「トラの物語を…そっちが良い物語だ」と答える。するとパイは、こう返すのだ。「ありがとう。 それは、神が存在する物語だ」

この「ありがとう」は、何に対する感謝だろう? 未だに、トラと漂流した物語を選び切れない自分に対して、その物語を選んで良いんだと言ってくれたように思えたのかもしれない。もちろん、それで簡単に苦悩が終わるわけでは無いが、少しは重荷を軽くしてくれたのだろう。


その3へ

2013年6月19日水曜日

一生モノの映画「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」その1

この映画は、DVDを買って損の無い作品だ。なぜなら、三つの理由で何度も楽しめるからだ。
まず、圧倒的に美しい映像。この映像だけでも、もう一度観たくなる。さらに、驚くべき第二の物語。その意味を確認するために、もう一度じっくりと観直す事になる。そして最後に、自分自身への問い掛けを行ないながら、また観る事になるだろう。それも、歳を重ねる中で何度も…。



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【データ】
原題:Life of Pi
原作:『パイの物語』ヤン・マーテル
公開:2012年
制作: アメリカ
監督:アン・リー
主演:イルファーン・カーン、タッブー、レイフ・スポール
時間:127分


【原題】
Life of Pi 『パイの物語』というシンプルで、しかも作品の本質を表した原題だ。しかし日本語版では、「トラと漂流した227日」という言葉が追加された。そのせいか、この映画をアドベンチャーやサバイバル物と勘違いしてしまった。それはそれで、ある意味で効果的なのだが、勘違いした印象で観るのを止めた人も居るかもしれない。そうであるなら、とても勿体無い。


【あらすじ】
主人公パイの両親はインドで動物園を経営していたが、新天地を求めて動物と共に一家でカナダに移住することに。しかし、パイの家族と動物たちを乗せた貨物船は、嵐に合って沈没する。ただ一人助かったパイは、ベンガルトラと一緒に漂流する事になる。そのパイが語る、227日の物語。


【冒頭シーン】
パイがキッチンで、菜食主義の料理を作っている。テーブルには、パイの体験談を聞きに来た作家が座っている。手際良く調理しながら、パイという名前の由来、そしてアダ名に関するエピソードを語る。

パイがテーブルに付くと、作家は訪ねて来た経緯を話した。パイは、「何を信じるかは、自分で決めればいい」と言って、その驚くべき体験を語り始める。


【ラストシーン】
すべてを語り終えてたパイは、作家を夕食に誘う。妻は料理が上手いからと言うと、作家は少し驚いた表情をした。結婚しているのが、意外だったようだ。パイは、猫と二人の子供もいると言った。

「じゃ、ハッピィーエンド?」と、作家が問うと、
「それは、あなた次第だ。物語は今、あなたの手にある」そう、パイは答える。

最後の場面は、一度も振り返えること無くジャングルヘ帰って行く、トラの後姿で終わる。


その2へ



2013年6月17日月曜日

深読みしたくなる映画「約束の旅路」その3


この映画ヘの、ちょっと妄想気味の感想をまとめてみる。

監督の狙いは、次のようなものだったのではと思う。

・一つは、エチオピア系ユダヤ人の存在を知らせる
・一つは、エチオピア系ユダヤ人が直面している問題を知らせる
・一つは、救出対象の選別に疑問を呈する

そして、それらすべてを「感動的なヒューマンドラマ」という味付けで覆い、反ユダヤ・反イスラエルという批判を回避する。



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まず、エチオピア系ユダヤ人というものの存在や経緯は、世界の人々によく知られているとは言い難い。映画の題材として取り上げることは、それを広く知らせるのに最も効果の有る方法の一つだ。実際、遥か日本の片隅で、こんな感想を書いている人間までいるのだから、それはかなり上手くいったのだろう。




次の、エチオピア系ユダヤ人がイスラエルで直面する問題については、主人公「シュロモ」が、少年から青年へと成長する様子に合わせて丁寧に描かれている。というより、映画のほとんどの時間が費やされていた。

なぜなら、シュロモが苦しんだ孤独と疎外感、そしてあからさまな差別こそ、イスラエルにおけるエチオピア系ユダヤ人問題の主要部分だからだろう。学校で、宗教の場で、恋愛や結婚・就職・政治で、彼らが今もぶつかり続けている事だからだろう。

ただそれらの問題は、彼を愛してくれる養母と恋人の存在によって救われるシーンが用意されていて、結果としてはソフトな印象に仕上げられている。この養父母はフランス系ユダヤ人で白人、シュロモの恋人になるのもヨーロッパ系の白人ユダヤ人だ。


これはちょっと、都合が良すぎるように思える。もちろん、そういう人たちは居るだろう。でも、そういう人たちが居ない中でもがく、エチオピア系ユダヤ人の方が現実には近いのではないだろうか。しかしそれでは現実的過ぎて、感動的な物語が成り立たない。その意味で必要な記定だったのだろう。

あるいは、この養母は、イスラエルの良心的な部分を象徴しているのかもしれない。肌の色こそ違え、内乱と飢餓に苦しんでいる同じユダヤ人を祖国イスラエルに迎えよう…という建前をそのまま信じ、そうで在らねばならないと突き進む人だ。対して養父は、イスラエルの本音を表しているようだ。祖国を護るには、一人でも多くの兵が必要だ…とシュロモの前で言ってしまったりする。

少年時代のシュロモで印象的だったのは、難民キャンプで一人暮らす母への手紙を代筆して貰う為に、同じエチオピア人の下を訪ねたシーン。養父母の家でも学校でも自信無げに俯いていたシュロモが、ここでは子供らしい素顔を自然に出していた。シュロモは、その後も彼を度々訪ね、悩みや葛藤をぶつける。彼の存在も、養母や恋人とは違う、同じ黒人という意味での救いだったのだろう。




しかしシュロモには、養父母や恋人にはむろん、同じエチオピア人の彼にも言えない秘密を抱えている。宗教を偽っている事だ。ユダヤ人の定義というのがどうも曖昧なのだが、ユダヤ教徒であること、母親がユダヤ人であることらしい。そのユダヤ教徒であることの定義も、「政治的な要請」によって決まる。

エチオピアのユダヤ人も、そうやってイスラエルによって線引きされた。その、イスラエルの都合に合せた恣意的な選別に対して、この映画は疑問を呈していると思う。



ここで、冒頭のシーンに戻ってみる。よく考えられた映画は、冒頭シーンですべてを語っている事が多い。

このシーンで不思議なのは、子供を亡くした女性の後をシュロモに追わせた母親の表情だ。エチオピアのユダヤ人だけを迎えに来たトラックに並ぶ女性は、いきなり見知らぬ子供に手を繋がれて驚く。

その子供が振り返った先を見て、シュロモの母親と視線を交えるのだが、頼むという仕草一つしない。もちろん、声を挙げて頼んだりしたらイスラエル兵にウソがバレてしまう。

しかし他人に自分の子供を預け、しかもキリスト教徒の子供をユダヤ人と偽って連れて行って貰うのだ。それしか、キャンプを脱出して子供がチャンスを得る方法が無い。そして、彼女が拒否して騒いだらお終いなのだ。



母親としては、思わず縋るような表情になるのではないか?  しかしシュロモの母親は無表情で彼女を見返すだけだ。縋るような様子どころか、むしろ威厳さえ感じる。

それは、この選別に対する拒絶ではないか?

 彼女の息子が亡くなり一つの席が空くのなら、息子のシュロモがそれを使うのは当然だ。たとえ、イスラエルの決めたユダヤ人という条件に合って無くても。なぜなら、死んだ子供とシュロモは、何も変わらない同じ命なのだから。このキャンプに居る限り、希望も安全も無い一つの命なのだから。

そんな思いが、哀願ではなくて威厳のある無表情を作ったのではないだろうか? そして、同じようにエチオピアでの内戦と飢餓をくぐり抜け、このキャンプで子供を亡くした女性には、その思いが分かったのではないだろうか。

そしてそれが、この映画で監督が伝えたかった事ではないだろうか。



母親が別れ際に言った、「VA, VIS ET DEVIENS」「行け、生きよ、生まれ変われ」という言葉は、そうして良いんだ、そうするべきなんだという強いメッセージだろう。生きるチャンスを掴む事は、他の如何なる事より大事な使命だ。


おしまい




2013年6月15日土曜日

深読みしたくなる映画「約束の旅路」その2


【感想】
広告やレビューを見ると、「感動的なヒューマンドラマ」だそうだ。もちろん、そう観ることも出来るし、それが自然だろう。エチオピア難民の少年が何重もの重荷に葛藤しながらも、周囲の愛情と本人の努力によって幸せな家庭を持ち、実の母との再会まで果たす…確かに感動的な物語だ。

しかし、なにか引っ掛かる。もし監督の狙いが本当に「感動的なヒューマンドラマ」なら、映画全体の構成というかバランスが悪いように思える。それに不要な設定も多く、話が複雑に成り過ぎている。単に材料を盛り込み過ぎただけなのか、整理が上手くなかっただけなのか?  それとも、なにか意図があってそうしたのだろうか?



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まず奇妙なのは、なぜ主人公をキリスト教徒の子供と設定したのだろう? エチオピア系ユダヤ人の子供という設定にした方がシンプルだ。それでも充分に、主人公が乗り越える苦難や葛藤を描ける。何かのトラブルで産みの母親とはぐれ、独りで「救出部隊」のトラックに乗ったとすれば良い。

主人公が本当はキリスト教徒の子供であり、ウソをついてエチオピア系ユダヤ人に成りすました事は、この映画で何も解決していない。いくら彼女や養母が許しても、イスラエル社会からみれば偽ユダヤ人であり、イスラエルを騙した詐欺師だ。映画の中でも、そうしたエチオピア人の摘発と強制送還の話が出て来る。

感動的なはずのラストシーンも、上記の事を考えると、新たな苦悩が増えただけではと逆に重い気持ちになった。主人公がユダヤ教徒の息子なら、このラストシーンが安心できるものになっただろうに。

しかし、もしこの映画が、「感動的なヒーマンドラマ」という体裁を整えながら、実は別な意図で作られたとしたらどうだろう? その意図とは、イスラエルに対する批判、特に「救出」と称した作戦の目的と結果に対する批判だ。もしそうなら、無駄に思えた設定が重要な意味を持ってくる。そして不自然なほどバランスの悪い構成も、ある意味で仕方なかったのだろうと思う。




もちろん、単に深読みし過ぎた妄想かもしれない。以下は、そのつもりで読んで欲しい。

まず、エチオピア系ユダヤ人の問題は、今も続いている。彼らはイスラエル社会の最下層を構成する存在だ。少し検索すれば、イスラエルにおけるエチオピア系ユダヤ人への差別問題が出て来る。例えば以下のような事件もあった。

「1996年1月末、エチオピア系ユダヤ人はエイズ・ウイルス感染の危険性が高いとして、「イスラエル血液銀行」が同ユダヤ人の献血した血液だけを秘密裏に全面破棄していたことが発覚した。更にイスラエル保健相が、「彼らのエイズ感染率は平均の50倍」と破棄措置を正当化した。」
http://inri.client.jp/hexagon/floorA1F/a1f1303.html

さらに、こんな話もある。
「イスラエル政府は5年前からエチオピア系のユダヤ人女性に避妊薬デポプロベラを用い避妊を強要していたことを認めた。」
http://electronicintifada.net/blogs/ali-abunimah/did-israel-violate-genocide-convention-forcing-contraceptives-ethiopian-women




こうした状況では、イスラエルが「人道的救出」と自画自賛している「モーセ作戦」や「ソロモン作戦」などの、エチオピア系ユダヤ人救出作戦の本当の目的に疑問が湧いてくる。そもそも、イスラエルがエチオピア系ユダヤ人を認めたのは、建国から25年以上も経った1970年代だ。

すると、次のような見方も説得力を持って来る。
「パレスチナ人との人口比競争において優位を保つためには、イスラエル国家は恒常的にユダヤ人移民を入れ続けなければならないという政治的要請があった。しかし、ヨーロッパからのユダヤ人移民の波がイスラエル建国後すぐに収束し、地中海・アラブ地域からの移民が50年代と60年代で収束してしまった。そこで、内戦と飢餓で国から逃げ出しているエチオピア人に目をつけ…」

つまり人道でもなんでも無く、ただイスラエルの都合によって行われた「救出作戦」だったという見方だ。もしそうであるなら、エチオピア系ユダヤ人だと認める条件も、救出する人数も、その後の扱いも、イスラエルの都合によって決められる。




イスラエルの都合とは、イスラエルの中枢を握るヨーロッパ系のユダヤ人、要するに白人のユダヤ人の都合という事だ。そう考えたなら、献血した血液を捨てたり、調整の為に避妊薬を使ったりするのも頷ける。また、エチオピア系ユダヤ人がイスラエル社会の最下層に置かれているのも理解出来る。

つまり白人のユダヤ人にとって、黒人のユダヤ人は必要に迫られて仕方無く連れて来ただけで、決して同胞とは考えて無いのだろう。現実の状況からは、そう見える。

しかし欧州で、特にフランスで、イスラエルに対する批判を公然と行うのは難しいという話も耳にする。反ユダヤ主義という非難が起きるからだ。世界での公開を前提としている映画なら、そうした抵抗はもっと大きいかもしれない。そこで、「感動的なヒーマンドラマ」という体裁が必要だったと考えるのは、空想が過ぎるだろうか。

そういう意図の映画だと仮定して、いくつかのシーンを考えてみたい。

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2013年6月14日金曜日

深読みしたくなる映画「約束の旅路」その1


【データ】
原題:VA, VIS ET DEVIENS
公開:2005年
制作:フランス
監督:ラデュ・ミヘイレアニュ
出演:アルマンド・アマール, ロシュディ・ゼム, シラク・M.サバハ, ヤエル・アベカシス
時間:149 分


【原題】
原題は、「VA, VIS ET DEVIENS」。母親が、息子と別れる時にかけた言葉だ。日本語訳で「行け、生きよ、生まれ変われ」という意味だそうだが、字幕で使われていた「 行け、生きろ、そして何者かになりなさい」という訳の方が印象的だった。



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【あらすじ】
イスラエルは1984年に、「モーセ作戦」を実行した。飢餓と内戦に苦しむエチオピアから、エチオピア系ユダヤ人だけを救出してイスラエルヘ連れ帰る秘密作戦だ。イスラエルの「救出部隊」は、スーダンの難民キャンプのエチオピア難民の元にもやって来た。九歳の少年は母の機転によって救出のトラックに乗り、イスラエルで新しい家族得る。しかし何重もの重荷を背負った彼は、長い葛藤の日々を送ることになる。



【冒頭シーン】
エチオピアの隣国、スーダンの砂漠に作られたエチオピア難民のキャンプ。ベットと粗末な机が一つだけという赤十字のテントで、子供を抱いた母親が地べたに座り込んでいた。彼女の顔に表情は無い。たった一人の医者は子供の瞳孔を確認すると、その瞼を閉じてあげる事しか出来なかった。それでも母親は無表情のままで、とっくに心を失っているようだ。

その様子を少し離れた所から、じっと見ている女がいた。傍には、僅かな食事を半分残して彼女に差し出す男の子。それを優しく押し返して食べさせながら、またさっきの母親をじっと見ている。


夜中、キャンプに銃を持った兵士と何台ものトラックがやって来た。難民の中のユダヤ教徒だけが呼ばれ、列を作り始める。息子を亡くした母親もユダヤ教徒で、独り列に並んでいる。それを見ていた女は寝ている息子を起こし、彼らと一緒に行けと言った。

幼い男の子は、母親と別れることを嫌がった。離れることが嫌なのか、母を置いて行くことが心配なのか。しかし抱きつく彼を母親は突き放し、「VA, VIS ET DEVIENS ( 行け、生きろ、そして何者かになりなさい)」と言う。男の子は母親の威厳に満ちた態度に、悲しそうな顔で俯いて列に向う。


男の子の母親は、首に十字架を付けていた。当然、男の子もユダヤ教徒では無い。彼は母親に言われた通り、息子を亡くして独り列に並んでいる女性の手を握った。女性は驚いて振り返り、息子を送り出した母親と視線を交える。二人の母親は、共に無言で、共に無表情だったが全ては通じた。男の子の手を強く握り直して、列を進んで行く。

トラックの前では、イスラエル軍がユダヤ教徒であるかチェックしている。問われた女は少年を自分の息子だと言い、キャンプの医師もそれを保証した。彼女の本当の息子を看取った、あの医者だ。チェックが終わりトラックへ向う時、男の子は母親の方に振り返ろうとした。しかし彼女は、それを強く制して歩かせた。


こうして実の母親と別れ、宗教も先祖も偽り、少年は「シュロモ」というユダヤ名のイスラエル市民となった。一日で4200人もの、エチオピア系ユダヤ人をイスラエルに空輸した「モーセ作戦」の、一つの情景だ。同様の作戦はその後も行われ、六万人のエチオピア系ユダヤ人がイスラエルに移住した。


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2013年6月12日水曜日

黒い肉体「ザ・インベーダー」


日本語タイトルはSF映画のようだが、まったく違う。
鮮やかで印象的な作品だ。


【データ】
原題:THE INVADER
公開:2011年
制作:ベルギー
監督:ニコラス・プロヴォスト
主演:イサカ・サワドゴ
時間:95分


【原題】
THE INVADER
「侵入者」
定冠詞が付いているので、もっと広い意味があるのかもしれない。




【あらすじ】
アフリカから地中海を越えて密入国して来た主人公・アマドゥは、豊かな生活を夢見てブリュッセルへ向かう。彼が考えていた、先進国での豊かで安全な生活。そうなる為のステップは、ことごとく上手くいかなない。唯一と思ったチャンスまで逃げてしまった時、彼は行動に出た。


【冒頭シーン】
南欧のヌーディストビーチ。全裸の白人男女が、海と太陽を楽しんでいる。すると水際に何かが見えるらしく、何人かが指を指したり声を挙げたりし始めた。あちこちに人が打ち上げられ、ビーチにいた人たちが慌てて駆け寄る。アフリカからの密航者を乗せた船が、事故にあったようだ。半死半生の彼らは、みな黒人だ。

その騒ぎにつられて一人の若い女性が立ち上がり、ゆっくりと歩き始める。しかし救助には目もやらず、ただ真っ直ぐに歩く。短く綺麗に整えられた金髪と、輝くような白い肌。すべてを晒した美しい肢体は、まるで彫刻のようだ。

彼女の視線は、波打ち際でもがく黒い人影に向けられていた。逆光でよく見えないが、大きな黒人が仲間を助けながらビーチに辿り着いたようだ。彼は肩で荒い息をしながら、近付いて来る女の方を見た。ボロボロのズボンに、剥き出しの上半身。

白い女神のような美しい女性と、黒い野生の逞しいさを持つ男が、互いを見つめ合っている。彼女の美しさと無防備さは、豊かで安全な世界の賜物。彼の荒々しさと逞しい体は、命懸けで逃げ出すしかなかった世界の賜物。見事なコントラスト。

女は視線を外せない。
男は視線を外さない。

この時、侵入されたのだろう。





【感想】
物語は映画であれ小説でれ、冒頭シーンが命だと思う。冒頭から数分で引き込まれ無いような作品は、最後まで見てもやはり詰まらない。その意味では、この映画は完璧だ。いや、むしろ冒頭シーンだけで充分、本編など付け足しに過ぎないとさえ思える。

余りに素晴らしいので、そのシーンだけ何度も見返してしまった。そして本編を後回しにして、物語の展開とラストシーンを勝手に想像した。それが充分に可能なほど、濃縮と象徴化された冒頭シーンだった。

案の定、ほとんど想像したものと変わらないラストシーンだった。そこに至る途中の物語など、殆どどうでもよかった。ある人は物語の展開に整合性が無いとか、リアリティが無いとか評していたが、そんなのはこの作品の主題では無い。

強烈な冒頭シーンと、そこから必然的に導かれるラストシーンで、この作品は完成している。むしろ本編部分は、あっさりとした薄味で丁度良いのかもしれない。物語部分までかっちりと濃厚に作ると、せっかくのシーンを邪魔してしまう。

この作品は、論理で見るのではなく映像から感じるものが、監督の届けようとした主題だと思う。その意味でも、日本語版で数カ所に入っていたボカシは残念だった。冒頭の女性も、ラストシーンの主人公も、全裸である必要性が明確にあった。

冒頭シーンの女性は、美しい肉体をすべて無防備に晒す事で豊かな世界を体現している。ラストシーンでの主人公は、理性を凌駕する野生の肉体を見せる事で映画に結末を付ける。そこにボカシなど入れては、本当に台無しだった。




2013年6月11日火曜日

淡々としたリアル-「チェチェン・ウォー」その3


映画「チェチェン・ウォー」を観て思った幾つかの疑問について、少し考えてみた。


・イワンは、なぜジョンの頼みを引き受けたのか?
映画の最初の方で、チェチェン武装勢力の残酷さが描かれている。捕虜にしたロシア兵の首を簡単に斬り落としたり、人質を家畜のように扱う様など正視出来ないほどだ。イワンにしてもジョンにしても、身代金目当てとはいえ解放されたのは幸運以外の何ものでも無い。

そんな武装勢力の元に、一緒に行ってくれと頼まれて引き受ける人がいるだろうか? また捕まれば、豚のように首を切り落とされるか、良くて死ぬまで家畜にされる。ましてイワンは、武装勢力のボスに命じられた捕虜交換の説得に失敗している。

たしかに、イワンは除隊して職も無く希望も無い田舎暮らしに鬱屈としていたし、ジョンは少なくない額の礼金を約束した。しかし、それでも余りにリスクの大き過ぎる話だ。実際、イワンは躊躇うこと無く断っている。それでも結局引き受けたのはなぜだろう?


「ヘルプ ミイ…」こう言った時のジョンの表情で、イワンは見捨てる事が出来なかったのではないかと思う。一言でいえば、義侠心ではないだろうか。結局イワンは貰った金を、利用したチェチェン人と負傷した大尉の家族に与えている。不器用で乱暴だが義侠心を持ち、それゆえに貧乏くじを引く…それをイワンが体現するロシア的なものとして監督は描いているのかもしれない。



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・イワンが罪に問われた時、なぜジョンは弁護しなかったのか?
ジョンにとってイワンは恩人だ。普通ならイワンが罪に問われた時、できる限りの弁護をするだろう。しかし、ジョンはしなかった。なぜだろう? イワンに対して何か怒っていたのか? 

いや、約束の金を渡すシーンを見る限り、そんなことは無い。むしろ、何か言いたげにジョンの目はイワンに向けられるが、それを無視してさっさとチェチェン人の傍に向かったのはイワンだ。そこには、拒絶のようなものさえ感じられた。

怖ろしい危険を顧みずに、ジョンを手助けしたのがイワンの義侠心だとすれば、それはジョンの幾つかの言動で裏切られたように思う。通りすがりの三人を殺して車を奪った時、武装勢力のボスを殺した時、マーガレットへの態度…。

どこかでイワンは、ジョンが別の世界の人間だと見切ったのだろう。そしてそのことは言葉にしなくてもジョンに伝わり、彼もそれを理解したのだろう。仲間としての繋がりが無くなれば、後は金を払ったという事実だけが残る。約束通り金を払ったのだから、それで終わり。それ以上の事をする理由が無い。

そうやってジョンは、イワンの仲間になれなかった寂しさと、見切られた苦さや罪悪感を忘れようとしたのかもしれない。



・なぜマーガレットは、大尉に惚れたのか?
単純な役柄であるはずのマーガレットが、この映画の中で不思議な存在となった理由はただ一つ。穴倉での初対面の時から、彼女が大尉に惚れたからだ。惚れたというより、唯一の支えにしていたというべきかもしれない。

このロシア軍の将校は負傷していて、半身がほとんど動かない。大尉はロシア語しか喋れないし、マーガレットはロシア語など分からない。おまけに彼女は、恋人のジョンと一緒に穴倉に放り込まれたのだ。大尉の存在に気付く直前まで、マーガレットは震えて泣きながらジョンに縋り付いていた。その彼女が、なぜ一瞬で大尉に心を奪われ、しかも打って変わって落ち着いた表情になったのであろう?


おそらく、この最悪の状況の中で唯一、大尉だけが安定した秩序を維持していたからではないか。本来なら頼りとするべきジョンは、初めて体験する恐怖にオロオロするばかりだ。こんな状況に平気なイワンも、生き延びる為に上手く立ち回っているだけだ。

この家畜小屋より酷い穴倉の中に、権威と秩序をもたらしたシーンがある。後から放り込まれたイワンが、大尉と出会う場面だ。イワンたちは、既に軍の階級も秩序も気にしていなかった。しかし大尉は、厳しい声で名前と階級を問い、状況報告を求める。その凛とした態度に、イワンともう一人の兵士が、反射的に軍人としての返答をする。

そこには、権威と安定した秩序がはっきりと存在していた。さっきまでの、泣きわめいたり動物のように立ち回っていた混乱とは、まったく違うものだ。その安定した秩序こそがマーガレットを惹きつけ、支えと縋ったものだろう。女権論者は怒るかもしれないが、これが女性の強さなのだと思う。安定した秩序さえ見つけられれば、周囲がどんな世界だろうと居場所を作り出せる。


助けられた後も、ずっと大尉に寄り添っていた。この異常な状況の中で、彼女の居場所は大尉の側だけだったのだろう。秩序を与えてくれなかったジョンなど、もう存在すら意識して無いみたいだ。

しかし大尉は病院へ搬送され、その後は家族の元に帰るだろう。残されたマーガレットは、過呼吸のような荒い呼吸を繰り返す。大尉の側に居る事で得られていた安定が、崩れ始めようとしているかのようだった。

おしまい。