2013年6月15日土曜日

深読みしたくなる映画「約束の旅路」その2


【感想】
広告やレビューを見ると、「感動的なヒューマンドラマ」だそうだ。もちろん、そう観ることも出来るし、それが自然だろう。エチオピア難民の少年が何重もの重荷に葛藤しながらも、周囲の愛情と本人の努力によって幸せな家庭を持ち、実の母との再会まで果たす…確かに感動的な物語だ。

しかし、なにか引っ掛かる。もし監督の狙いが本当に「感動的なヒューマンドラマ」なら、映画全体の構成というかバランスが悪いように思える。それに不要な設定も多く、話が複雑に成り過ぎている。単に材料を盛り込み過ぎただけなのか、整理が上手くなかっただけなのか?  それとも、なにか意図があってそうしたのだろうか?



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まず奇妙なのは、なぜ主人公をキリスト教徒の子供と設定したのだろう? エチオピア系ユダヤ人の子供という設定にした方がシンプルだ。それでも充分に、主人公が乗り越える苦難や葛藤を描ける。何かのトラブルで産みの母親とはぐれ、独りで「救出部隊」のトラックに乗ったとすれば良い。

主人公が本当はキリスト教徒の子供であり、ウソをついてエチオピア系ユダヤ人に成りすました事は、この映画で何も解決していない。いくら彼女や養母が許しても、イスラエル社会からみれば偽ユダヤ人であり、イスラエルを騙した詐欺師だ。映画の中でも、そうしたエチオピア人の摘発と強制送還の話が出て来る。

感動的なはずのラストシーンも、上記の事を考えると、新たな苦悩が増えただけではと逆に重い気持ちになった。主人公がユダヤ教徒の息子なら、このラストシーンが安心できるものになっただろうに。

しかし、もしこの映画が、「感動的なヒーマンドラマ」という体裁を整えながら、実は別な意図で作られたとしたらどうだろう? その意図とは、イスラエルに対する批判、特に「救出」と称した作戦の目的と結果に対する批判だ。もしそうなら、無駄に思えた設定が重要な意味を持ってくる。そして不自然なほどバランスの悪い構成も、ある意味で仕方なかったのだろうと思う。




もちろん、単に深読みし過ぎた妄想かもしれない。以下は、そのつもりで読んで欲しい。

まず、エチオピア系ユダヤ人の問題は、今も続いている。彼らはイスラエル社会の最下層を構成する存在だ。少し検索すれば、イスラエルにおけるエチオピア系ユダヤ人への差別問題が出て来る。例えば以下のような事件もあった。

「1996年1月末、エチオピア系ユダヤ人はエイズ・ウイルス感染の危険性が高いとして、「イスラエル血液銀行」が同ユダヤ人の献血した血液だけを秘密裏に全面破棄していたことが発覚した。更にイスラエル保健相が、「彼らのエイズ感染率は平均の50倍」と破棄措置を正当化した。」
http://inri.client.jp/hexagon/floorA1F/a1f1303.html

さらに、こんな話もある。
「イスラエル政府は5年前からエチオピア系のユダヤ人女性に避妊薬デポプロベラを用い避妊を強要していたことを認めた。」
http://electronicintifada.net/blogs/ali-abunimah/did-israel-violate-genocide-convention-forcing-contraceptives-ethiopian-women




こうした状況では、イスラエルが「人道的救出」と自画自賛している「モーセ作戦」や「ソロモン作戦」などの、エチオピア系ユダヤ人救出作戦の本当の目的に疑問が湧いてくる。そもそも、イスラエルがエチオピア系ユダヤ人を認めたのは、建国から25年以上も経った1970年代だ。

すると、次のような見方も説得力を持って来る。
「パレスチナ人との人口比競争において優位を保つためには、イスラエル国家は恒常的にユダヤ人移民を入れ続けなければならないという政治的要請があった。しかし、ヨーロッパからのユダヤ人移民の波がイスラエル建国後すぐに収束し、地中海・アラブ地域からの移民が50年代と60年代で収束してしまった。そこで、内戦と飢餓で国から逃げ出しているエチオピア人に目をつけ…」

つまり人道でもなんでも無く、ただイスラエルの都合によって行われた「救出作戦」だったという見方だ。もしそうであるなら、エチオピア系ユダヤ人だと認める条件も、救出する人数も、その後の扱いも、イスラエルの都合によって決められる。




イスラエルの都合とは、イスラエルの中枢を握るヨーロッパ系のユダヤ人、要するに白人のユダヤ人の都合という事だ。そう考えたなら、献血した血液を捨てたり、調整の為に避妊薬を使ったりするのも頷ける。また、エチオピア系ユダヤ人がイスラエル社会の最下層に置かれているのも理解出来る。

つまり白人のユダヤ人にとって、黒人のユダヤ人は必要に迫られて仕方無く連れて来ただけで、決して同胞とは考えて無いのだろう。現実の状況からは、そう見える。

しかし欧州で、特にフランスで、イスラエルに対する批判を公然と行うのは難しいという話も耳にする。反ユダヤ主義という非難が起きるからだ。世界での公開を前提としている映画なら、そうした抵抗はもっと大きいかもしれない。そこで、「感動的なヒーマンドラマ」という体裁が必要だったと考えるのは、空想が過ぎるだろうか。

そういう意図の映画だと仮定して、いくつかのシーンを考えてみたい。

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