2013年10月22日火曜日

壮大な罠?「ゼロ タウン 始まりの地」


◼︎原題:Zaytoun(オリーブの枝)
◼︎製作年:2012年
◼︎製作国:イギリス、イスラエル
◼︎監督:エラン・リクリス
◼︎上映時間:107分
◼︎主演:スティーヴン・ドーフ
◼︎粗筋:
1982年にベイルートで撃ち落された戦闘機のパイロットと、敵対するパレスチナの難民の子供の逃走&友情劇。



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◼︎感想:
敵同士の二人が、危険な旅を通して友情を育む。いい話だが、ありがちなストーリーでもある。だから、その部分は省略する。もし、この映画のストーリー通りのレビューを読みたいなら、他のサイトを見て欲しい。

この映画に惹かれたのは、ただ一点だけ。もしかしたら、この作品は壮大な罠なのでは?という疑問だ。つまり、この映画そのものは単なる前振りであり、本当の主題は映画の外にあるのではないかということだ。もしそれが当たっていたら、これほどやるせない映画は無いだろう。


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舞台は、レバノン戦争直前の1982年。主人公は、少年とパイロット。

少年の名はファヘッド、イスラエル建国によって故郷を追われたパレスチナ難民の三世だ。レバノンの首都、ベイルートの難民キャンプに住んでいる。諦め顔の祖父と、故郷から持って来たオリーブの木を大切にし、いつか帰る事を夢見てる父。しかしファヘッドは、パレスチナの解放を唱えるPLOの軍事訓練にも参加せず、この危険な街で日々を楽しんでいた。

そんな少年らしい時間は、空爆で父が殺されて終わる。ファヘッドは訓練にも参加し、PLOの下働きをするようになる。そしてある日、墜落した戦闘機から一人の男が捕虜となった。

捕虜となったパイロットの名はヨニ。

(その名前からも、作品中での言動からも、彼はイスラエル空軍のパイロットとしか思えない。しかし、この映画を紹介する多くのサイトでは、アメリカ軍のパイロットと書かれている。もしヨニがイスラエルの兵士で無いなら、冒頭に書いた話は的外れという事になり、これ以上書くことは無い。しかしせっかく書き始めたので、この捕虜をイスラエル兵と仮定して話を進めてみる。)


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ヨニの監視役となったファヘッドは、彼に怒りをぶつけながらも、今はイスラエル領となった故郷に連れて行くなら逃がしてやると持ち掛ける。彼の望みは死んだ父の夢を叶えること、つまり、あのオリーブの木を故郷の地に植えることだ。

他に脱出の術が無いと悟ったヨニは、不承不承にファヘッドの提案を承諾する。この時から二人にとって、周囲はすべて敵になった。ヨニはもちろん、彼を逃がしたファヘッドもPLOに追われるし、入り乱れる各勢力も二人のどちらかにとっての敵だ。

こうして、敵対しながらも助け合わなければ生きて目的を達せられない、そんな二人の旅が始まる。ハラハラ、ドキドキ、そしてたまに笑える逃走劇。そこは、先に断ったとおり省略する。


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なんとかイスラエル領に辿り着いた二人。ヨニの好意でファヘッドは父祖の故郷を見つけ、あのオリーブの木を植える。目的を達した彼は、一人ベイルートへ戻る。

その別れ際の二人の会話。ファヘッドはヨニに、またベイルートにおいでよと言う。ヨニは、ああ行くよと答える。もちろん、二人は平和になった時の事を想定して言っている。

映画は、ここで終わる。

しかし、この作品が前振りのために作られたとしたら、物語はまだ続くはずだ。そしてそれは、現実の歴史の中にある。そう、この映画の中の時間と、現実の時間を繋げるのだ。

ファヘッドとヨニの旅は、1982年のレバノン戦争の直前と設定されている。おそらく、五月頃だろう。では、二人が別れた後に起きた出来事を追ってみよう。


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ファヘッドとヨニが、再会を約して別れた一ヶ月後の六月。

ガリラヤの平和作戦と称して、イスラエルがレバノンに侵攻する。レバノン戦争の始まりだ。イスラエル軍はPLOの主な拠点であった南部を制圧したが、さらに軍を進めてベイルートを包囲した。首都で多くの市民を犠牲にして、ついにPLOをレバノンから追放する。

ところが、悲劇はそれで終わらなかった。レバノンに親イスラエル政権を樹立させる目論みが、バシール・ジェマイエルの暗殺によって頓挫してしまったのだ。イスラエルは激怒し、その意を汲むかのように親イスラエルの民兵組織が、ベイルートの難民キャンプを襲った。

ファヘッドとヨニが別れた四ヶ月後の、1982年9月のことだ。

これがアリ・フォルマン監督の「戦場でワルツを」でも描かれた、サブラー・シャティーラ事件だ。たった三日の間に、女も子供も、1500人以上の難民が虐殺された。この事件は国際的な非難を浴び、イスラエルのシャロン国防相が辞任している。


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さて、ファヘッドがヨニと別れて帰った先は、ベイルートの難民キャンプだ。そこに住んで居たのだし、祖父も待っている。そのキャンプ名は明示されていないが、同じベイルートだ。虐殺の起きたサブラーかシャティーラであると考えても、そんなに無理は無いだろう。

そしてヨニがイスラエル兵であると仮定したら、パイロットだから地上戦には関わらずとも、イスラエルのレバノン侵攻を空から助け、ベイルートを空爆しただろう。それは、サブラー・シャティーラでの虐殺に至るお膳立てを手伝ったとも言える。

ファヘッドに、またおいでよ…と言われ、ああ行くよと答えたヨニ。それは美しい人間の約束としてではなく、おぞましい悲劇として実現したのかもしれない。そしてこの映画は、虐殺されたであろうファベットを史実に沿って想像する事まで含めた作品かもしれない。

もしそうなら、この映画は壮大な前振りに過ぎず、別れのシーンの会話とその後に起きる歴史の事実こそが主題となる。やるせない、そして言葉を失うほど重い作品だ。





✳︎それにしても、変な邦題をつけたなぁ。意味が分からん。






2013年9月29日日曜日

遺体 明日への十日間


◼︎原題:遺体 明日への十日間
◼︎製作年:2013年2月
◼︎製作国:日本
◼︎監督:君塚良一
◼︎上映時間:105 分
◼︎主演:西田敏行, 緒形直人

◼︎粗筋:

ジャーナリスト石井光太が、2011年3月11日に発生した東日本大震災から十日間、岩手県釜石市の遺体安置所で、石井本人が見てきたありのままを綴ったルポルタージュ『遺体 震災、津波の果てに』を映像化した作品。



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◼︎感想:
先のエントリーが、タイのリゾートで津波に襲われた家族の実話、「インポッシブル」だったので、同じように津波に襲われた人々を日本の映画ならどう描くのだろうと思い、この作品を観た。

最初の印象は、二つの作品が決定的に違うという事だ。それも、根本的に、まったく違う。もちろん、舞台もテーマもビジネスとしてのスタイルも違う作品を、較べる方が間違っている。それは承知だが、「違うなぁ」という思いは消えない。

たとえて言うなら、万人受けするファミレスの料理と、祖母の田舎料理の違いか。

「インポッシブル」は、素材のアク抜きも絶妙だし盛り付けも綺麗だ。迫力ある津波のシーン、ハラハラする再会シーンと、見せ場をきっちり用意する一方で、家族で観られるように悲惨な光景はソフトに描いている。つまり、世界中の大人でも子供でも観てもらえる映画に仕上がっている。

しかし、「遺体 明日への十日間」は、違う。この作品は、伝えたい事が先にあって、映画はその手段の一つに過ぎないのだろう。伝えたいという思いが先で、見せ場も気遣いも二の次だ。とても、家族揃って気軽に観たり、万人が映画として楽しめるような作品ではない。

あの激しい地震や巨大な津波の描写こそ無いが、舞台となる体育館に運び込まれる遺体は、かなり衝撃的だ。もちろん、実際のまま描く事は出来ないだろうが、それでも充分に痛ましかった。思わず目をそむける人も少なく無いだろう。


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そんな映画、「遺体 明日への十日間」が、伝えたかったものは何だろう? それは、「明日への十日間」というサブタイトルそのものだと思う。

突然、信じられないような巨大な津波で、家族や恋人・友人を亡くした人々が普通の精神でいられるはずが無い。そんな人たちが明日ヘ向うには、正気を取り戻す必要がある。

ちなみに、人が死を受け入れる時、「否認と孤立」→「怒り」→「取引き」→「抑鬱」→「受容」と、五つの段階を経るそうだ。最後の「受容」に至らないと、正気を取り戻すことは出来ない。

映画の舞台は、震災によって遺体安置所となった釜石市にある学校の体育館だ。ここで遺族や関係者が、段階を経て死を「受容」する。その「明日ヘ」向かうために必要な過程を描いたのが、この作品だ。その意味で、ふと「おくりびと」を想起させる。


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安置所となった体育館には、次々と遺体が運ばれて来る。市の職員は、何をしていいか分らない。消防団や自衛隊・医者たちは、自分たちの仕事だけで手いっぱいだ。

体育館の床は泥だらけ、遺体を覆うのはビニールシート。どんどん運ばれる遺体は、なんの整理もされ無ず無造作に並べられる。死後硬直した遺体の骨を折る音、イライラした人々の怒号。そんな中に、家族の遺体を探しに来る人々。このままでは、「受容」に至るどころか、否定・怒り・鬱に遺族が閉じ込められてしまう。

そんな状態を救う切っ掛けとなったのが、西田敏行演じる民生委員の相葉常夫だ。相葉は葬祭関係の経験があるという事で、ボランティアとして協力を申し出たのだ。

彼、遺体を丁寧に扱い、そして遺族と共に語り掛けた。家族の遺体は隣同士に並べ、床の掃除も始める。余りにも多い遺体に呆然としている人や、悲しさを怒りに変えている人たちに、やっとそこから抜け出す道筋が見えたように思えた。

まず、遺体の多さに呆然としていた市の職員が、相葉の行動に反応する。急拵えの祭壇を作り線香を立て、ぎこちなく遺族に声を掛け、あるいは黙々と床を掃除した。明らかに、何かが動き始めたのだ。


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不思議なもので、動き始めると必要なものが揃い始める。いや、実際には足りないのだが、あるものを尊重すべきと分って来るのだろう。

地元の僧侶が、歩いて読経を上げに来てくれる。市が、手を尽くして棺を集める。火葬場の修理、他県への協力依頼、もちろん充分なはずも無いが動き出す。

僧侶の読経に、それまで我が子の遺体にすがり付いていた母親が顔を上げる。出来る限り綺麗にして、棺に遺体を納める。手配の付いた棺を見送る。一連の、日本人が育んで来た「死を受容する」ステップが踏まれて行く。

愛する者の突然の死に、怒りや喪失に囚われていた人々が、言葉を発し、また感謝すら表せるようになる。家族を失った痛みが消えるわけではないが、明日に向かって一歩は踏み出せている。その過程を見守ったのが、この映画だ。


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作品を観終わって、気になる点が二つ。一つは、死を受け入れる知恵は文化として残っていたが、システムとしては、まったく用意されてなかった点だ。もちろん、こんな大きな犠牲を想定していた市町村は無いだろう。だから今までは仕方ないが、これからは違う。

相葉氏や僧侶のような人の存在を、偶然に頼ってはいけない。市職員の訓練にも限度がある。とすれば、地域社会にとって必要な職業や人材を、地域社会が普段から大事にするしか無い。何もない時には、もっと便利な、もっと安い方法があると思ってしまうだろうが、失ってしまったらイザという時に自分たちが困る事になる。簡単に他所から呼べるとは、限らないのだから。

もう一点は、西田敏行でなかった方が良かったのに…。どうも以前から、この俳優さんが苦手だ。彼の演じる役は、いつも喋り過ぎる。しかも喋りがクドい。あの半分の喋りだったら、もっと感情移入がしやすかったのではと、つい思ってしまった。



2013年9月28日土曜日

インポッシブル

インポッシブル
原題:The Impossible
製作年:2012年
製作国:スペイン・アメリカ合作
上映時間:114分
主演:ナオミ・ワッツ、ユアン・マクレガー

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■粗筋
2004年のスマトラ島沖地震で、津波に襲われた家族の実話を映画化。



■感想
冒頭シーンは、家族がバカンスに向かう飛行機の中だ。そこで、留守にした家のセコムをオンにしたか、しきりに心配する夫。セコム?と驚いたが、日本に在住しているという設定だった。

この飛行機の中で、大事なシーンがある。

既に少年期に入っている長男ルーカスにとって、幼すぎる弟たちは邪魔なのだろう。ヘッドホンをして、自分の世界に入っている。隣の席の次男トマスは、兄に邪険にされて嫌だと母マリアの席まで来て訴える。マリアはルーカスの隣に行き、弟にもっと優しくしなさいと諭す。

少し歳の離れた兄弟なら、よくある事だ。しかし、このシーンは後の伏線になっている。


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マリアの家族が、タイのリゾートホテルに着いて、ほんの一日か二日ほど楽しんだ頃。突然、津波のシーンがやって来る。これは圧巻だ。

大きな災害や事故が起きると、それを想起させるようなドラマや映画を延期するという事がある。以前から、そんなのはバカバカしいと思っていた。しかし、この映画を観て少し考えが変った。

襲い掛かる水の塊、呑まれ、もがき、打ち付けられ、皮膚が裂ける。観ていて、痛みを皮膚に感じるほどだった。なるほど、この映画を日本で上映するには、やはり時期を選ぶ必要があっただろう。

それほど生々しい迫力があった津波シーンだが、しかしそれでも、あの震災の津波映像に較べたら恐怖は少ない。タイの津波がそうだったのか、あるいは敢えて描かなかったのか。もっとも、津波そのものは、この映画のテーマでは無い。


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家族五人がバラバラに流された後、マリアと長男ルーカスは濁流の中で互いを見つける。やがて水が引いた後の荒れ地を、二人は大きな木を目指して歩く。第二波、第三波を避ける為だ。

しかし、マリアは足に大きな怪我を負っていた。焦るルーカス。そこに、何処からか幼い子供の声がする。マリアは声の主を探そうとするが、ルーカスが止める。今は自分たちの事で精一杯だ、次の津波が来る前に早く木に登ろうと。それでもマリアは、声を頼りに一人の子供を助ける。

やがて三人は村人に助けられ、病院に運ばれる。マリアはかなり危ない状態で、ルーカスはそばに付きっきりだ。その時マリアは、自分は大丈夫だから、ここで誰か他の人の役に立ちなさいと言う。


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ルーカスは何をしていいか分からず、人で溢れた病院をうろつく。すると白人の大人が、写真を突き出して何やらまくし立てる。英語ではなかったが、子供を探していると分った。名前をメモして、呼びながら病院中を歩くルーカス。するとほかの人も自分の家族や子供を探して欲しいと頼んできた。

いっぱいになったメモの名前を呼びながら歩く。その途中で、マリアが助けた幼い子供が、親と再会して喜んでるところを目にする。さらに病院の人混みを歩くルーカス。そしてついに、メモの中の一人を見つける。

その時、ルーカスがとても嬉しそうな笑顔を見せる。飛行機の中でも、子供を助ける事に反対した時も、不機嫌そうだった彼が嬉しそうに笑う。


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ここで、この映画の主人公はルーカスだと思った。
二度見せた不機嫌な顔、二度見せた嬉しそうな顔。

母親は特別として、それ以外の人間、ましてや他人などには興味が無かったルーカス。自分の好きな音楽に浸るために、隣の弟を無視して何時間でも平気だったルーカス。泥の中に取り残された子供の声を聞いても、それを無視しようとしたルーカス。その頃の彼は、不機嫌な顔ばかりだった。

しかし、病院で次々と頼まれた人探しのメモを取る時のルーカス。やっと、たった一人だけれど見つけ出した時のルーカス。そして、あの助けた子供が父親と再会したところを見たルーカス。その時の彼は、本当に嬉しそうな笑顔だった。

シンガポールの病院に向かう飛行機の中で、母にその事を報告する。マリアは涙を溢れさせながら、ルーカスを誇りに思うと言って抱きしめる。このルーカスの、前半と後半のコントラストこそ、映画のテーマかもしれない。


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最後に、この映画のタイトル、「The Impossible」は、何を意味するのだろう? 直訳すれば、出来ないとか、無理、不可能などの意味だ。では、何が出来ないのだろう? 何が不可能なのだろう?

自然の脅威の前には何も出来ない、抗う事は不可能という意味か? それとも、こうした体験をした後、もう以前には戻れないという意味か?

どうも、いま一つ、このタイトルは分からない。











2013年9月27日金曜日

面倒な映画

映画には、二通りある。

エンドロールが流れて終わる映画と、それから始まる映画だ。
別な言い方をすれば、何らかのカタルシスを味わって終わる映画と、自分で気持ちの落とし所を探さないといけない映画とだ。

後者の映画の場合、観終わった後に、そのテーマや背景を調べて自分なりに考える必要が出て来る。それをしないと、なんだか消化不良のような釈然としない気持を引きずってしまう。

元来、映画は娯楽なのだから、観終わってすっきり楽しめる作品が良いに決まっている。しかし、概してそうした作品は直ぐに忘れてしまう。一方、自分で落とし所を見つけるタイプの作品は、面倒ではあるが一生の記憶に残る。

ということで、今日も面倒な作品を探している。

2013年7月1日月曜日

憎悪の袋小路「灼熱の魂」その2


【印象的なシーン・三つの絶望】
虚ろな目と、表情を失った顔。周囲の一切に反応しない、孤独と絶望の顔。ナワルは、そんな姿を三度見せる。


まず、最初の妊娠と駆け落ちの時。兄弟たちにムスリムの恋人を殺され、自分も家族の恥として銃を頭に突き付けられた時。幸せを掴むはずだったのに、一転して全てを失った。その絶望にナワルは表情を失い、抵抗すら放棄した。

祖母の計らいで命は助けられるが、産んだ子供は直ぐ孤児院ヘ送られ、ナワル自身も町の親戚に預けられる。つまり、周囲の言うままに従った。

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次は、乗り合わせたバスが襲撃された時。ムスリムを狙った無差別殺戮で、
キリスト教徒だったナワル以外の全員が殺された。彼女は十字架の首飾りを掲げて、自分がキリスト教徒であると叫ぶことで助かった。

自分が目の前の殺戮者たちと同じ側の人間だと叫ぶ以外、助かる術は無かった。しかし、せめて救おうとしたムスリムの子供は、その彼らによって目の前で撃ち殺された。

火をかけられたバスが激しく燃えている。周りには荒れ地が広がるだけ。それ以外には、何も無い。この理不尽を止めるものも、咎めるものも、罰するものも無い。その絶望と嫌悪にナワルは表情を失い、荒れ地に座り込む。

その後、彼女は暗殺者として、戦いの場に参加する。選択し、行動したのだ。この、憎悪の一方の側に身を置いた時の彼女が、一番輝いて美しく見えた。



最後は、冒頭の市民プールのシーン。自分の半生の全てを理解した時の絶望。もはや彼女を救う祖母も親も亡く、彼女が選択出来る憎悪の側も無い。愛の対象と憎悪の対象が同一と知ってしまった彼女は、憎悪の袋小路で表情を失う。

ナワルの遺した遺言は、ジャンヌとシモンに三つの絶望を追体験させ、憎悪が人を袋小路に導くと教えたのかもしれない。






【憎悪の連鎖】
この映画は、壮絶で美しい物語だ。しかし、最初にも書いたように、憎悪の連鎖を断ち切る何かを示しているとは思えなかった。

現実で考えた場合、憎悪の対象から遠く離れ、出来るだけ忘れるのがベストではないか?  ナワルがキリスト教武装勢力への憎悪に駆られた時、暗殺者ではなくカナダへの移住を選んでいたら…。

遠く離れる事が無理な状態なら、出来るだけ早く和平協定なりを結ぶとか、教育や宗教で若い世代を変えるという事になるのだろう。ただ、それは歴史をみる限り、あまり効果は無いようだ。

紛争地域に限らず、憎悪の連鎖は何処にでもあるけれど、忘れていくという以外の解決方法は知らない。でも必ず、自分の利害に絡めて蒸し返す連中が出て来る。そうなれば、さまざまな努力は簡単に無となる。

さまざま民族や宗教が同居し、紛争の歴史を繰り返す国や地域の人たちにとって、憎悪の連鎖ほど厄介なものは無いだろう。こうしたテーマの作品も、おそらく無くなる事はない。


おしまい。


2013年6月30日日曜日

憎悪の袋小路「灼熱の魂」その1


【データ】
灼熱の魂
原題:Incendies
公開:2010年
制作:カナダ・フランス
監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
主演:ルブナ・アザバル
時間:131分

【原題】
「Incendies」とは、フランス語で炎、火事を意味しているそうだ。カナダ在住の劇作家ワジディ・ムアワッドの「浜辺」、「火事」、「森」、「空」と続く「約束の地」四部作という舞台作品の、第2作目を映画化したもの。不満が残る気がするのは、四部作の部分だからかもしれない。

【あらすじ】
カナダ・ケベック州に住む双子の姉弟(ジャンヌとシモン)は、亡くなった母親(ナワル)の遺言で父親と兄の存在を知る。そして母親の故郷であり、自分たちの生まれた地でもある中東の国に、初めて足を踏み入れる。



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【冒頭シーン】
ナワルは、娘のジャンヌに連れられて市民プールに来ている。平凡だが、平和な夏の一コマだ。しかしナワルは、そこで信じ難いものを目にしてしまう。その意味を理解した彼女は、まるで呆けたように表情を失う。


【感想】
徐々に明らかになる母ナワルの過去、そして姉弟の出生の秘密。ミステリーのような展開で引き込まれ、最後まで飽きさせる事が無い。そうした意味では、とてもよく出来た映画だ。

しかし、幾つかのレビューで言われているような、「憎悪の連鎖を断ち切る物語」とは、とても思えなかった。ナワルの託した二通の手紙も、憎悪の連鎖を断つ道を示しているとは思えない。むしろ憎悪の連鎖が辿り着いた、ひとつの袋小路ではないのかと感じた。



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以下は、ミステリー部分のネタばらしを含むので、この映画をまだ観ていない人は気を付けて下さい。
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母ナワルの遺言に従って父と兄を探すジャンヌとシモンは、その衝撃的な答えを知る。二通の手紙は、同じ人物へのものだった。1 + 1=1、つまり父と兄が同一人物というのは、憎悪の対象が愛の対象と同一だった事をも示している。

憎悪の対象を追い求めれば、それは愛の対象だった。愛の対象を追い求めれば、それは憎悪の対象だった。まるでメビウスの輪のようだ。憎むに憎めず、愛するに愛せず、あざ笑うことも、勝ち誇ることも出来ない。しかし、だからといって、憎悪を消す事も愛を忘れる事も出来ない。まさに袋小路ではないだろうか。


あの夏の市民プールで、ナワルはその事に気付いた。表情を失うほどの衝撃を受けるのも当然だ。その冬に彼女は亡くなり、遺言と二通の手紙を遺した。物語としては必要な展開だろう。しかし現実で考えたら、ナワルの遺言も手紙も、憎悪の連鎖を断ち切る行為とは正反対に思える。

少なくともジャンヌとシモンは、苦悩を抱え込んだ。それが憎悪に変わらないと、誰が言えるのか?  ナワルの遺した二通の手紙が、三人の子供たちと一人の父親の憎悪を浄化し、消しさるだろうか? その答えは無く、ただ憎悪の袋小路を見せ付けて終わってしまったという印象だ。

もっとも先に書いたように、原作の戯曲は四部作ということなので、物語には先があるのかも知れない。


ちなみに、この映画では火と水が印象的なシーンに使われている。その火と水については、以下のブログが興味深い解釈をされている。ただ、やはりそれでも姉弟の苦悩は大きく、重く残るだろうと思う。

[映画]灼熱の魂(ネタバレ)/笑わない女が歌うのは…
http://d.hatena.ne.jp/mina821/20120203/1328254874



その2へ










2013年6月21日金曜日

一生モノの映画「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」その3

前エントリーから。感想の続き。


・神が存在する物語とは、何を意味するのだろう?
二つの物語を語り終えた後の会話を、もう一度みてみる。

パイ:「どちらの物語でも、沈没理由は分からない。どちらの物語でも、それを証明出来ない。どちらの物語でも、家族は死ぬ。どちらの物語でも、私は苦しむ。 それで、どっちを選びたい?」

作家:「トラの物語を…そっちが良い物語だ」

パイ:「ありがとう。 それは、神が存在する物語だ」

この会話でパイが言った、神が存在する物語…とは、何を意味しているのだろう? ここにも多くの示唆が含まれているようだ。


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まず、トラの物語はパイが作った話だろうか?  いや、そうでは無いだろう。もし創作なら、二つの物語を語る必要は無い。救助された当初ならまだしも、長い年月が経っている。他者に語るべき物語がどちらなのかのという選択は、自ずと出来ているはずだ。

先のエントリーで、パイは未だにどちら物語を選ぶか決めかねていると書いた。が、より正確には、二つの物語のどちらもパイの記憶となっていて、どちらが、どこまで本当の体験と記憶なのか、本人も判別出来ないのだろう。「どちらの物語でも、それを証明出来ない」のだ。

つまり、どちらを選びたいか、自分で決めるしか無いということだ。それはパイであれ、彼から二つの物語を聞いた人であれ同じだ。そして、どちらの物語を選ぶか決めた瞬間、物語はその人だけの意味を持って完結する。

逆に言えば、二つの物語を語るパイは、まだ選ぶ事が出来ていない。なにしろ彼は当事者であり、「どちらの物語でも、私は苦しむ。」のだから。



では、トラの物語は、いつ生まれたのか?  それは、パイがメキシコの海岸に辿り着いて、意識を失った時だと思う。過酷な現実の舞台だった救命ボートから降りて、かつ、理性や論理性から解放された、その時にいきなり物語は生まれたのだろう。そして、それはもう一つの記憶となった。



そして、パイがトラの物語を、「それは、神が存在する物語だ」と表現したのは何故だろう?  それを知るには、彼が長い漂流の間に何を考え何を思ったのかを想像するしかない。

船が沈んで数日の間に、悲惨な出来事が起きてしまい、彼自身も恐ろしい事をしてしまう。それからの長い長い日々。生きる為に必死で闘いながらも、決して忘れる事の出来ない記憶が彼を責め続けただろう。

同時に彼は、神にも問い続けたのではないか。パイは、幼い頃から宗教に強い興味を持っている子供だった。それで無くとも、大海原を漂う彼の前に、人間の理解や想像を遥かに超越した光景が現れる。

神にすがり、苦悩をぶつけ、何度も何度も問い続けただろう。無論、何処からも神の声は返って来ない。しかし救助され意識を取り戻した時、彼は二つの記憶を持っていた。パイが、トラの物語を神からの返事だと捉えるのは、自然な事だと思う。神が存在したがゆえに生まれた物語、それを神のいる物語と言ったのだろう。

トラのいない物語だけなら、パイの苦しみは耐え難いほどだったかもしれない。果たして家庭を、子供を持つ事が出来ただろうか。トラのいる物語だけなら、彼は嘆きと悲しみを持ち続けるだろうが、自分に問い続けるという業は抱え込まずに済んだかもしれない。しかしそれでは、考える事も失う。

二つの物語が、判別出来ないほど記憶の一部となっているのは、それこそ神の絶妙な配分かもしれない。



他にもたくさん、考えるべき事がある。
なぜトラは最後までボートに居たのか?
二つの物語の違いは何か?
トラの物語が果たす役割は?

しかしキリが無いので、取り敢えずここまで。やはり一生モノの映画という評価は、大袈裟では無いと思う。

おしまい。